月別アーカイブ: 2009年6月

『鍵がない』

 

それぞれの夜、それぞれの朝。

なんかこう、言葉で解説することをいかにも無粋に感じさせる映画です。文句いわんで一度見てみろ、という。予告編の雰囲気に反して恋愛の要素は割と薄く、『tokyo.sora』的な展開を見せます。珍しく自分の好みの中では前向きにさせる映画。ただし「なめくじキャサリン」は泣きます。

いやーしかし大森南朋が相変わらずかっこいい。。。

 

きょうにっき

なんだかんだで今日も10時になる。10時以降は仕事するな令が発令される。

今日は新人が配属されてきた。明日も一人やって来る。今年は三人も新人が入ってくるのだ。若い。もう、若さを感じてしまう。

新人教育用のプリントをつくる。「ほうれんそう」については教えるの、三回目(三年目)。原価の仕組みとか高度なのはもはや後輩が新人にティーチング。私は本当にこの室でなんでも屋の異名を持つ。隙間産業まかせなさいだ。まあ、良いことではあるのだけど。

あんまりきちきちと形式張ってやるのは好きでなかったりする。だから人の上には立てないと思う。形式から漏れてしまう隙間を埋める、やわらかい存在でありたいとは思っている。役職とか所属とか「五年目らしさ」とか、そういうのから常に自由でありたいと思っている。

ねえ?

きょうにっき

今日は頭で考えすぎた。ちゃんと現物を確認しよう。思い込みで行動しないようにしよう。っていうか、ほんと時間無駄したんだよなー。なんか一個不安材料があるとあたふたしてしまう余裕の無さがいいかげんやんなっちゃいます。マルチタスクって苦手なんだよなー。

仕方なく帰ってきたのが九時。だらだらテレビ見たせいで風呂出てからいまくらいまで一時間ちょっと執筆。いま書いているシリーズお茶の水はあと二、三話で完結させようと思っています。これは本当にある写真家(っていいながら数回前のエントリーでネタバレしているけれど)の写真を見ながら思い浮かぶ物語を文字にしていっているのです。けっこう楽しいです。思い浮かぶことをきままに、各話のつながりはほとんど無視して描いていっていたのだけど(吉祥寺のはずが新宿になっていたり・・・最後にどう考えてもおかしいところは直します)、だんだん一つの群像が浮かび上がってくるのが自分でもおもしろい。夢判断のようというか。

一日を一単位として頑張っていこう。

きょうにょっき

今日は会社の先輩の結婚式へ。二次会からの参加。お台場には生まれて初めて行った。新橋での乗り換えに手こずる。ゆりかもめの速さにびっくりする。田舎もん丸出し。

二次会はうちの室の出身者でひしめく。おまけに辞めた同期まで来ていたのでなんだか自分が会社に入ったばかりのころの感じで、なつかしかった。といっても皆さん、ぼくも含めて昔とは違う仕事をしているのでなんだか同窓会のような。一個上の東京に移動した先輩方や、電話でしか普段しゃべっていなかった人とも会えて収穫。

五年目ってやっぱりもうある程度会社の居場所っていうのがあるよなあ、というのをちょっと感じた。人とのつながりという意味で。

いま鹿嶋に帰宅。

ほんとまともな本屋に行きたい。

きょうのっき

8時に帰宅。ご飯を食べた後、クラモチ氏と酒を飲む。飲んでいるうちにそのまま眠ってしまい、今起きた。コンタクトレンズをつけっぱなしだったので目が真っ赤である。夢を見た。風呂に行こうと思っていたら別の同期が部屋に入ってきて「しゃもぢ、運動会やろう!」とじゃましてきた。

百人一首はなつかしくて久しぶりにやりたくなった。漫画としてはスポコンの域を出ないかな……競技カルタだけでなくもうひとひねり裏のテーマも出てくればおもしろくなると思うのだが。

来月はいくえみが二冊出ますね。楽しみ楽しみ。
ではまた寝ます。

きょうにっきゃ

今日も7時に室を出る。寮でご飯を食べた後部屋でごろごろしていたら後輩から飲みに行きましょう電話。飲みに行く。さっき帰ってくる。

今日は特に思うところはない。

きょうにっき

本日も7時上がり。ご飯を食べてからJUSCOに行って買い物。煙草は一日一本。

ここ一ヶ月くらい写真について考えつづけている。

スーザン・ソンタグ『写真論』
ロラン・バルト『明るい部屋』
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』
『世界写真史』(美術出版社の例のシリーズです)
『写真の歴史』(知の再発見双書のシリーズです)
荒木経惟『東京夏物語』
ホンマタカシ『たのしい写真』

などなど、関連図書をだいぶ読んだ。一般的な知識、写真はそもそも芸術なのかという古くて新しい問い、連続する写真としての映画、あらためて現代において写真とは、メディアとは──。なんてことをいろいろと学んだ。

バルトは相変わらず書記の中で思考をめぐらせていくテクストの快楽方式で叙述を進める。いくつかのキーワード──ストゥディウム、プンクトゥム、《それは─かつて─あった》云々──は彼独自の語法ではあるが読んで理解できる。バルトが自分がなぜこの写真が好きなのか、なぜこの写真の主題と全然関係のない部分に自分の目が行ってしまうのか…をそれらのタームによって一生懸命説明しようとするその書きぶりが美しい。

写真は個別にしか語ることができない。それは光を写したものであり、単なる現象でしかない。そこに物語を読み込むのは人間の想像力が為せる業であり、写真家という作為──フレーム、アングル、被写体、あるいはそれが偶然か演出か──は様々な要素をはらみながら欲望をかき立てる。

『東京夏物語』は荒木がタクシーの中(それは確かにカメラオブスキュラなのだ)から夏の東京の街を写していった、ただそれだけの写真集。これを2003年の夏のある日本の都市の考古学的資料として読む人間がどれほどいるのだろうか? いや、この問い方はまずい。本来写真とは単に資料でしかないはずだ。だからなぜこの考古学的資料に人間は過剰に意味を見いだそうとするのかをこそ、考えなければならないのだろう。

それにしても──青山通りで小さな子どもにジュースを買ってやっている若い母親の姿、それは明らかに「自動販売機でジュースを買う」ということをはしたないことと感じている数少ない階級の人びとであろうか、その鋭い眼光は見る者の心をかきむしる、そこには確かに物語がある、と感じでしまう。

一方でメディアの中の写真・映像をソンタグは彼女得意の倫理観の俎上に上げる。彼女は繰り返す、何事にも懐疑的であれと。『他社の苦痛へのまなざし』を書いた著者の言葉である、軽々しく読み飛ばさぬことが賢明だろう。

写真の含意は、世界をカメラが記録するとおりに受け入れるのであれば、私たちは世界について知っているということである。ところが、これでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。厳密にいえば、ひとは写真から理解するものはなにもない。──スーザン・ソンタグ「プラトンの洞窟で」

ついでだから書いておくとソンタグの倫理観は決して予定調和的でない。言葉に背骨があるのなら、彼女のそれはぴんと張っている。それを読むことは、常に読むもの自身の人生の教条に跳ね返ってくる、強い力で。だから、比較するのもおこがましいが現代日本の自称文化人たちの繰り言とは全然違う次元にある。『良心の領界』のシンポジウム記録を読んでいるとソンタグの出色の度合いに圧倒される。

そんなわけでぼちぼち一眼レフもほしいなあー。

今日の日記

7時に室を出る。後輩と食事へ行く。

帰ってきてあまりに眠いので寝る。早く帰ってきてもなんだかぐったりしていてなんにもやる気が出ず、だらだらとテレビを見て過ごす。半端無い疲労感である。大した仕事もしていないのだけれど。

その日を後悔せずに終えたい、なんて思っても思い違いとかつまらないことを言ってしまったり。そういうのをさらりと受け流していく若さ、それは軽やかさ。歩くスピードで生きる。ムラの無さ。それは感情であったり、呼吸であったり。まあ、そういうイメージが大切だなあと思う。「あっ、しまった」と思ったらちゃんと振り返って後戻りして謝る。それを身軽にできるのであれば失敗など怖くないのだ。失敗を失敗を思わないということが強さなのだ。

絵はきれい。位置づけにくい作風。あるいは思い切りど真ん中かもしれないのだが・・・?

6月の日記

6月に入った。異動の季節ではあるので先週は送別会やらボーリング大会やらでほとんど毎日飲んでいた。そういうことも年に二、三度はある。

ぼく自身は相変わらず、相変わらずである。それでも、今年の前半はかなりの時間を仕事に費やしたので対外的にも(対上司的にも)夏が終わるくらいまでは少し自分のペースを取り戻したいと考えている。マニュアル整備やら頭の整理やら、あるいは少しだけ丁寧にルーチンをこなしてみるとか、そのあたりから始めようと思っている。

予算期に再発した喫煙も、最近うなぎ登りに本数が増えていって喉が痛い。やめればいいのに。やめよう。少しくらいは、もう一回努力してみよう。

そもそも喫煙は、別に集中力も身体的な快楽もなにももたらさない。ただそれは、つかの間思考を停止してくれる。考えるという行いを一酸化炭素が停滞させてくれる。そうしないとやっていられない。けれど、とことん思考とつきあうというのもそれは人生の態度ではあるだろう。

5月は、ほとんどブログの更新ができなかった。誰かになにかを伝えるということがこれほど億劫になったこともない。そもそも「だれか」ってなんだ? たしかに、想定読者は幾人か存在する。彼らに向かって、自分はまだ生きていると、キーボードを打ち続ける。それは、同時に自分に対してもまだ自分はこうして文章を書く可能性を保持しているということを証明しつづける営為でもある。

手が止まったとき、ぼくはこの世から少しだけ自分の存在が薄らぐのを感じる。いっそ、このままこの何年間かのログと共に消滅して(させて)しまいたい。形而上的自殺。朝目覚めたら、肉体が雲散霧消するような、デイドリーム。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

その青い光は、確かに「せはしく明滅」していなければなるまい。