月別アーカイブ: 2009年3月

しゃもぢだって人間である

本日は採用活動のため東京へ。品川駅前の京浜ホテルでは元従業員たちが横断幕を持って拡声器で演説をしていた。

仕事自体は二時間で終わり、まだ三時くらいだったので本屋巡り。渋谷はもう、見るべきものがなくなった。ヤマダ電器とかできているしなんかもうあの場所自体に魅力が無くなった。お茶の水丸善はいつも空気が乾いている。八重洲ブックセンターではようやく建築系の書架があることを発見。医学書とかと同じフロアーなのでいつもは完全に無視していた階だった…。しめて一万円ほど購入。

多摩美の図書館に関する下記の本は図版が素晴らしすぎてため息が出てくる。

伊藤豊雄は今度「プロフェッショナル」に出演するんですかね。楽しみ!

鹿島に帰ってきてからは定額給付金の書類を書く。もらえるものはもらう。そのあと「グーグーだって猫である」を同期と鑑賞。前半はわくわくしたけど、麻子先生がぶったおれた後はまったくダレた。90分でまとまる内容だと思った。まあ、休日の午後明るいうちにヒマでヒマで仕方がない人向け。見終わった夕方から吉祥寺にでもメシ食いに行くかって感じの映画。

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はい、どうもありがとうございます。好評のようですな…。

本日は同期&後輩の異動壮行会。八時に合流してさっき帰ってきました。こういうときでないとなかなか経理室に引きこもっていると会えない人達の顔が見られます…顔見るだけで終わってしまったような気もしますが。。。

その人がその場にいるかいないかでその場の空気が大きく変わる人っていますよね。大学の時も先輩におりました。いるといないとで、他のメンバーは全く変わらないのにぜんぜん違います。まあ、同期にもそんな希有な人がいまして、今日はそれをよく感じた。アレは本当に一つの才能だよな…才能でもあるし好きでやっていることが長じてそういったキャラクターが形成されるんだよな。

いやもう、恐れ入るんですよ。バラバラのものが一つにちゃんとまとまる。みんなその人の方を向いている。その人の指し示す方向にちゃんと従う。従うという言い方は変だけれど、その人の向いている方向にすごくきらきらした楽しいものがあるように感じてしまう。

それはきっと相対的に決まるものではないんだと思う。

例えば職場で、誰か一人は室長だとか部長だとかをやらないといけない。それはその人の指向に関係なく、役割として与えられる。あんたがそれをやらなくちゃいけないんだ、下がついてくるかは別問題としても、下がついてくるということすら役割の一部に入っている。そういう風に役割としてだったらできる人もいるだろう。だって室員というのも一つの役割だし、組織である以上守られなくちゃならない。

そこが学級崩壊はあっても職場崩壊なんていうものが現象として無いということの理由だと思う。

じゃあ飲み会は? 飲み会は組織ではない(ただし職場の飲み会は組織であるとは思うが)。もちろんお会計をしたりメンバーを集めたりというのはあるだろう。けれど会計の人は常に会計をやっているわけではないし、人集めだって「参加しなくてはならない」という義務感がないという前提さえあればそれは「結果を伴う」必要はない。だめならだめでそれでいい。

そういうところで自然発生的に生まれてくる「役割」というのが人間の本当の価値をかいま見せるのだと思う。会社で仕事ができるなんてほんとくだらない一面的な価値でしかないでしょ。そういう中でしか生きてない人はそれはそれでご勝手にという感じだけど。

誘ってくれる人がいる以上は、もうちっとぼくもなんとかしなくちゃなあと、しんみりと感じた今日でした。

読んでもしょーもない日記

山場山場と言いながら予算もようやく今週が第二の山場。来月は第三の山場です。一体いつになったらたまりたまった振り替え休日を取れるんでしょうか。

ま、そんなことを言ってても仕方がない。本当に仕方がないのだと思うようになりつつある。問題は、いかに毎日一時間以上何かを書く時間に充てることを可能にするかだ。とりあえずは意固地になってキーボードに向かうこと。記録を残していくこと。

ロランバルト『美術論集』『恋愛のディスクール・断章』
李禹煥『出会いを求めて』
宇多田ヒカル『点』
『音楽とことば』
カズオイシグロ『わたしたちが孤児だったころ』
鷲田清一『死なないでいる理由』(文庫化に際し大加筆!)
矢沢あい『NANA』21巻
小玉ユキ『坂道のアポロン』1~3巻
深沢かすみ『本棚の神様』

以上、積ん読中。やっぱり積ん読かよ! でも読んで書くんではなくて、書きながらその合間に読む、みたいな感じを基本のスタイルにしたら少しははかどるかも。全部読み終わってから書きたいこと書こうと思っても読むだけで土日が終わってしまう。

ほんとくだらないな、最近書いていることが。。。自家撞着に陥っている感じだ。

ただなんというかすごくすごく焦っている。自分の立ち位置がぐらぐらと揺らいでいるというか、このままこんな生活続けていたら確実にくだらない人間になってしまう。なんでもいい、なにかしなくちゃ! なにかしなくちゃなんにも残らないし、残らないのは今のところすごく悲しい、と思う。もちろんなにも残らなくたっていいじゃないかという考え方も一方では強力にあるということも知っているけれど、それほど達観できてない。そういうのはきっと、ちゃんとなにかを残せた人が余生に使う言い草だ。

とか言いながらこんなことで何行も使っているのもほんとに馬鹿らしい。どうか、小説読んでみてください、なんて太宰治みたいにくねくねしたって始まらない。今日書く一行が今日のおまえの全てだ、なんて言っていた三島のマッチョなイズムの方が共感してしまうな。

あえて受験生のように、あえて就職活動中の学生のように物事を考えてみる。

全ては未だ終わっていない。全ては未だ現在進行形なのだ。手を動かしている限り、頭は働いている。その実感だけが今日の今の自分だ。なにもなければなにもなかったことにされてしまう。その空白を、行間をわざわざ読むものがどこにいる? 単純な話だ。ないものはない。あるものはある。そこに立ち返るべきだし、ないのにあるようなそぶりをしたりしちゃだめだ。それがあなたの全てだ。

ふう……煙草を一本。

しかし正直なところなにをしたいのかよくわからんな。クラモチ先生と撮っていた映画どうするか? やっぱり機材買って出直すかという話もあったり。小説も二冊目出さないの? ってよく聞かれる。ありがたい。今度は本気の自費出版するかもなーとは考えている。製本してISBNコードだけ取ればいちおう本としての体裁は整う。あるいは製本しただけでここで売りさばくか? だれか買う? とりあえず目下、大学時代の同期に同人原稿頼まれているのでそれに精出す。間に合わなかったら「ピース・オブ・タイム」改稿しよっかなー、って考えている時間が一番楽しかったりする。

やっかいな「自分」

三連休はいつものようにだらだらと読書をしたり、人のブログを全部印刷して一から読んだり、自分の小説をいじくったりして過ごした。大体三連休というのは、一日目にだらだらしすぎて昼夜逆転し、二日目によし今日からはちゃんとした休日を過ごそうと思って洗濯したりホームセンターに買い物に行ったりして生活者としての一面を取り戻したりするんだけど、三日目には次の日の仕事のことを思い出したりして鬱々たる気分になって今くらいの時間を迎える。

なんか前にも書いたけど、人が「渋谷で遊ぶ」とか「土曜日だからおねーちゃんのいる店に行く」とか言うのがいまいち具体的にイメージできないところがあって、「遊ぶ」というのはなにをもって遊んだことになるのかよくわからない。

「渋谷で遊ぶ」としたら青山通りから松濤まで散歩して界隈にある本屋を片っ端からひやかすくらいしかぼくにはできないし、あるいはなんでわざわざ高い金払ってまで他人としゃべらなくちゃいけないのか? もちろんそういうところが人間としてぼくが至らなさを禁じ得ないところではあるのだけど今更先端恐怖症の患者に針を持たせて歩かせるようなのは受け付けない。まあ、精神状態がある複雑な条件を満たせばやってやれないことはないのだけど、だいぶ長い準備期間が必要だったりするのが、不機嫌な時代のまっただ中にいるぼくの未熟さである。それはよーくわかっている。

演ずるなら四六時中。楽屋に不意に入ってこられると、けっこうしんどいのですよ、ぼくという人間は。自分にとってそれが得なのか損なのかずいぶん長い時間かけて吟味しないと決断できないのですよ。ごめんなさい。

美術大学やらから社会に出て、芸術文化が自分の指先からこぼれていくという悲しさを持ったのならば、今度はこれまでの歴史が自分に惜しみなく優れた物を与えてくれてきたように、これからの歴史に向かって自分から貢献していくべきだと思う。

よく読んでいるブログから引用させていただく。これを読んでから(元記事はもっとずっと長いものなのですが)ずーっと、このことについて考え続けている。まとまった自分なりの答えが出たらちゃんと書きたいとは思っているのだけど、なかなか形にならない。でも、彼女の言う「大人になるキャンペーン」に自分も参加したい、しよう、するしかないと思う。そしてどういう形で参加するかを要は、ずーっと考えているわけだ。

明治は遠くなりにけりって、言っている場合ではない(今書いている短編の連作がまさに……)。「ちょーっと待てよ、ぼくはもう三十なんだぜえっ」ってミスチルが歌っていた。そんなの聞いて笑っている場合ではない。「同年代の友人たちが家族を築いていく」中で、あんたはなにを選択しなにを人生の指針とし、仕事以外でなにを歴史に残していくのか、いけるのか、いけないのか!?

あああ、そう言えばこの前の結婚式の話を書かなきゃと思っている。親族としては初めてだったので、久しぶりに会った祖父の変わりっぷりとか、ひそかになんかほんと泣けてくることばっかりだったんで。世代を交代して行かなくちゃならない世代になっちまったってことよ。でも男は子ども産めない代わりに作品残すってだれが言ったんだっけ?

そして冒頭の「気まぐれロボット」を見てそのあまりに円谷プロ的世界にげらげら笑ったのが、唯一この三連休で笑った出来事でした。このクライシス、書くことで自分を救うという原点に立ち戻って、もうとにかく読んでないで書け書け書け書け!

みなとみらいの本屋

親戚の結婚式に横浜まで行った。先週のことだ。横浜駅は相変わらずどこか工事中である。東横線は桜木町行きしか知らなかったぼくも初めてみなとみらい線に乗った。なんのことはない、車体も東横線そのままだった。

みなとみらい駅に立つとなつかしい青い看板がすぐに目に入ってきた。Book1stだ。親族の集合時間には未だ早かったのでその小さな店内に足を踏み入れた。

本屋の品揃えというのはその立地を確かに意識している。みなとみらいに本を買いに来る人なんてどんな人だろうか。横浜で仕事をしながら休日は買い物に来るアッパーミドルな未婚女性といったところか。

書架には松浦弥太郎が正面を向いて並べられていた。よしもとばななほど求道的ではないけれど、かえって具体的なウェイ・オブ・ライフを伝えてくれる。でも「DEAN & DELUCA」のトートバッグを持っている男の子はどうもね、という誰かさんの声も頭の中に聞こえてくる。自意識過剰気味に、生活を送る。そういうのを吸収したい人が来店するのかな。良い意味でも悪い意味でも。

コミックの棚には岩本ナオの全巻がこれまた正面を向いている。amazonで漁るようにしか本を買えない地方在住者にとってすれば、その中でアンテナに引っかかった作家の本がこうやって都会の、もっとも多くの人の目にさらされる場所に陣取っているのを見るのは少しだけ勇気づけられる。「そんだけ本読んでいるんだから、あんたのその価値観とか取捨選択の基準にそろそろ自信持ちなよ」と焼き肉を食べながら言ってくれたと同期の言葉も思い出す。

レジに行くとアルバイトかと思うような女性の胸に「店長」のプレートが留められていた。この書店がどういうチェーンマネジメントの下にあるのか知らないけれど、もし品揃えを独自に裁量しているのだったらもう一度訪れたい方寸である。

岩本ナオの地元観

やはり、上手い。

東京の大学を出た主人公の銀一郎は地元の戻ってきて村役場に就職する。観光名所も名物土産も若い人達もいない田舎で、その日常は進んでいく。数少ない仲間との微妙な距離感、あるいは置いてきた「東京」との距離感。

ロマンチックラブイデオロギーに毒されていない結婚観がまだまだ生きている「地方」での恋愛を描くと、こんなになるのかという驚きが、むしろこれはぼくがいま同じような「地方」に住んでいる中で「それがむしろあたりまえなのか」という気づきにもつながる。

『Yesterday, Yes a day』(これはほんとに表紙にだまされる)と言い、岩本ナオの描く「地方」は間違いなく少女漫画の範疇を見えたリアルさを持っているし、そして日本にいるこの漫画の読者にとって、むしろ都会よりもここに描かれた日常の方が「日常」なのではないか? だって、東京ってほんのほんの一部でしかないわけだ。

望むべくは、「地元としての東京」「地方としての東京」を描いた作品って何かないかな? ということ。下北的・中央線的な上京物語はもう食傷なのだ。そういえば最近魚喃キリコをめっきり読まなくなったのもそのせいかもしれない。岩本ナオの描く当たり前さの新鮮さ、それに続くのは……やっぱり浅野いにおか?

そんな意味でも青木淳悟の『このあいだ東京でね』は無上に面白かった。


あるいはNHKの特集「沸騰都市」。考えるネタはたくさんある……。

白磁のように

あなたは静かな生活を始めなければならない。

そもそもあなたの選択肢には禁じ手しか残っていなかった。あなたの役割は終わろうとしている。いやもうとっくに終わっていたことにあなたは気がついてもいなかった。ふと気づけば、音もなく、消えていた。

もう一度言おうか、あなたは静かな生活を始めなければならない。

煙草を吸って悲愴ぶることも、酒を飲んで息巻くことも、もはや必要ない。ただ一切はあなたの前から過ぎ去った。それだけだ。時が経ったのだ。

喪に服さずとも、あなたはあなたの所に戻った。あなたはあなたのためだけに生活を続けていけばよい。もう他のことは考えなくとも良い。あるのはただ、深く深く大きな海のような諦念、それだけだ。

あなたは主張しなくとも良い。感じたままを受け入れていけばよい。誰かに自分を良く見せようとか、言葉で傷つけてやろうとか、あるいは自分を言葉を追い込んだりする必要もない。そういった季節は過ぎたのだ。

鼓舞、誇張、過剰を一切捨てよ。白磁のような、なんの模様も必要ない毅然とした立ち姿だけを矜持とせよ。そこから紡がれる言葉は静かで、さざ波のようだろう。大きな声にかき消されるだろう。濃い色彩には侵されるだろう。それで良いではないか。なにを戦う必要があるのか。「余計なお世話だ」と、切り捨ててしまえばいい。

誤解を恐れずにいえば、あなたはあなたのためだけに生活を続けていればそれでよいのだ。それ以上を望めば、渇望はまた生まれるだろう。上質な数少ない道具で、相変わらず誰にも影響力のない言葉を書き続けていけばいい。それは、とても素敵な人生ではないか。それはとても幸福な人生ではないか。

いつかあなたはあなたのノスタルジーを全て紙に写し取ることに成功するだろう。そこがあなたの死の位置だ。まずはそこまで進もうではないか。それがあなたにとっての新しい誕生にもなるかもしれないではないか。けれどそんな期待は今はいやらしいものだ。

ポリシーは単純な方がよい。大きな声を立てている人間を一切信用するな。大きな声に耳を貸すな。小さなささやきをこそ、聞き取るべきだ。ましてやあなた自身、大きな声を張り上げるためにこの世に生まれてきたわけではないではないか。そのことを銘記すべきだ。

だからもう焦る必要はない。ただ丁寧に。拙速さよりも、むしろ時間をかけることに主眼を置くべきだ。いまないものを求めて猛者になるな。あなたの今、目の前にあるものを慈しむこと。

その傲慢さを謙虚と呼ぶのだ!

村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ

を読みました。

Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.

まったくその通りだな、と思いました。

自分たちで作ったものに殺される。それも、システムがシステムであるが故に。誰のせいでもない、誰のせいにもできない。往々にして、そのシステムを作った人間にとって思いもよらない結果は生まれてくる。

仕方がないとか、こういうもんだからとか、そういうのは敗北の言葉だ。これはいったい何なんだ、とか自分だったらこうはやらないとか、ちゃんと立ち止まるべきだ。システムは確かにぼくたちを急かす。そいつが決めたロジックにしたがってぼくたちは思考停止を迫られ、なにも考えなくていいから言ったとおり動けと命令してくる。でも、それでも尚、立ち止まらなければならないときがあるんだろう。いや、それは日々考えるために立ち止まる時間を持たなければならない。

松下幸之助は、この世にあるすべのものが自分のものだったらと考えればあらゆるものを大切に取り扱うだろう、というようなことを言っている(らしい)。それは面白い発想だと思う。

会社だってなんだって、自分のものだと思えば自分で変えられると思えるし、少なくとも根拠のないそういう実効性は末端にいる人間ほど豊富に持っておいた方がいいだろう。なぜなら、システムを支えるのは現業であり、システムに参加するのは現業だからだ。

今月、ここ何年間かずっと全社的に動いてきたある取り組みのプレ試行があって、今のところ結構うまくいっている。それには、今まで思考停止してマニュアル通りやっておけば済ませられたものを、みんなが互いの情報交換の意義を理解し合って無駄なところは削減しあるいは逆に機械的な作業の意義を理解することでモチベイトされ、結果として今上手く動き始めている。

はっきり言ってシステム的なてこ入れをがんがん金入れてやったわけではない。けれど本当にボトムアップでブラックボックス化していた部分をひもといていったおかげで、全員がシステムの全体像を理解し、変な言い方だけど自分が必要な歯車なんだということを理解した上で現業が動いている。これは卵か壁かという二元論では片付けられない事態だ。別に卵の味方を顕示する必要もない。我々がシステムを作り上げている、という強烈な意志だ。

実際問題壁を主張する人、壁になりたがる人、壁が大好きな人、というのはいる。往々にして管理職クラスにいる。というか、もし管理職なるものがそういうことを旨とする職制であるならば、はっきり言ってそんな会社つぶれちまえばいいと思う。流行のスーパーフラットな職場がいいかと言えばそうも言えないかもしれないけれど、少なくとも壁だけ作ってあとはよろしくじゃ困るでしょ。スケジュール組むことも大事だけど、大事なのはそれを残業100時間して遵守することではなくて無理な部分を都度都度修正していける柔軟さでしょ。

と、思います。