月別アーカイブ: 2008年8月

マンガ4種

谷川史子再び。コーラス系はこちらが初単行本のようです。表題作は退官間近の大学教授とその担当学生との物語。河野裕子という歌人の短歌をモチーフに作られていますが、その解釈の広がりになかなかうならせられます。淡々と自分の臆病さを文字にする、それは自己満足と呼ぶにはあまりに凛とした姿。

オノナツメも二冊目。こちらはレストランのダンディな従業員たちとそこに転がり込んだ女の子との物語。あれ、「積極」もそうだけど”おじさま萌え”みたいのってマンガの潮流として最近あるの?

絵柄は「not simple」ほど単純化された描画ではなく、だいぶ雰囲気が違います。しかしながら母娘の確執というサイドストーリーは健在。

こちらは青年誌の連載。若い夫婦の物語が七話。話としては、まあ突飛なものはないです。というかそれがこの作者の持ち味か。谷川史子のマンガには絶対に器用な人間っていうのが出てこないように思います。それぞれの不器用さやマイペースさがドラマを生んでいる。ドラマといってもそれはやはりとてもほんわかしたものなのだけど。絵は抜群にキレイ。

「間取りまんが」らしい。「暮らす」ということに焦点を当てた連作。一転して出てくる人物みんな不甲斐ない。一生懸命な不器用さというのではなくて、ただただ運が悪かったり自分で自分をコントロールし切れていない。そのあたりにイライラしてしまう人は読めないかもしれない。読み終えたときにちょっと「まあいいか、これで」と少しだけ自己肯定に浸れる。

堀江敏幸『いつか王子駅で』

堀江敏幸二冊目読了。これは、小説なのか。「上質」という形容句がこれほど似合う文章も珍しいものです。保坂和志的な小説観をもってすれば、これもまた一つの小説の姿なのでしょう。彼ら二人の対談が存在するのかどうか知りませんが、あるのであればぜひ読んでみたいものです。

物語に起承転結はありません。途中退場した男とは最後まで再会することはなく、その不在感の中で逆に途中入場した女の子が最終ページを飾ります。

生活はこうして続いていくのでしょう。全ては出会い頭であり、因果関係は後付けです。それが故に現在進行で進む物語に脈略は求められません。それこそがリアルの根源。

混線した黒電話のように、ともすれば回復不能になる危険と隣り合わせのまま「待つこと」への憧れを捨てきれないからこそ、私の前には経済力と反比例して時間ばかりが堆積していくのだろう。わざわざタクシーに乗って借金を申し込みにいく百閒先生の顰みにならったわけではないにせよ、負のベクトルに向けて待つために行動を起こすというどこか間の抜けた暮らしが、どうやら身体の隅々にまで染みついてしまっている。

ぼくたちはこの小説を通じてもう一度意味にまみれた己の人生を見直す/語り直す必要があるのでしょう。そこには予定の入っていない休日のきらきらした価値や、会議が一日中つまっているある平日の朝のひとときを気づかせてくれるはず。

マンガ三種

いくえみ綾はこつこつ買い続けている。題名だけ見ているとだまされる。しっかりと少女マンガの枠をはみ出してくれている。

いくえみ作品の醍醐味はやっぱりさまざまな再会。それはさして好きでもなかった人との演じられた再会であったり、喧嘩別れして何年も経ってからの再会だったり、別れるための再会だったり。そこに表出してくる「あの時は実は……」のところがいろいろなバリエーションを持っていて、似たような展開の話でも全然違ったように見えるのがすごい。

10年ぶりくらいに谷川史子なぞ読んでみる。この繊細な絵柄は健在ですね……かつてのリボン系の作家さんがコーラスやCookieで連載を続けているのが、姫ちゃんのリボンだの天使なんかじゃない世代のぼくとしては嬉しい限り。読者も歳を取る。

『華麗なる一族』の庶民版といったところでしょうか。オノナツメという人のマンガは初めて読みましたが、日本人離れした絵柄は笑顔が似合わない。だから何ページかに一度やってくるイアンの笑顔が印象的。ただひたすらこの物語の主人公の幸福を願ってページを繰る感じがもどかしい。

…歩いていると、
よく親切な人と出会う。
今ここにこうしていられるのはその人たちのおかげだと思う。
あたたかいよね。
でも、
本当に、感じたいのは、
もっと近くにいる人からのぬくもりなのに。

初めから明かされている結末に向かわされるのは読み手としてはつらいばかりです。その中でもかなり脇役ながらリックの台詞は一つ一つ、なんとか物語を快方に向かわせるように読めて、救われる。結末は変わらないのに。

吉見 俊哉,若林 幹夫編著『東京スタディーズ』

 

を、読みました。

都市論マイブームは依然、継続しております。この本は、各界の論客による都市論を集めたもので、それぞれに独特の切り口があって楽しむことができました。

六本木ヒルズと東京ディズニーランドとを比較しながらヒルズ開発の思想が実は非常に古くさいものとも取れるとする吉見の論、聖蹟桜ヶ丘の歴史(『聖蹟』とはなんなのか?)、石原千秋のニュータウン移住によるある違和感、あるいはピチカートファイブにおける東京観、臨海副都心開発と秋葉原変貌との決定的な差異……ありきたりの「都心-郊外二元論」に対峙しながら新たな地平を切り開いていくフィールドワークの巧みさが、非常に興味深い論考を生んでいます。

くりかえしになりますが、就職して東京という場所を離れたこと、そしてこれまた典型的な地方郊外に住んでいること、そしてとりもなおさずその場所の経済的利潤が住民のほとんどが働く工業地帯によってまかなわれている──そういった事情が都市論、郊外論への興味をかき立てるようになりました。外国に行って初めてわかる日本の姿、みたいな感じでしょうか。

それまで無自覚だったものが言説によって自覚化されていく、その驚きはおそらくは学問をするということの、最初の喜びなのではないかと思います。

桜庭一樹『青年のための読書クラブ』

を、読みました。
うーむ、さすが読者を裏切らない作家です。直木賞フィーバーの際に買ったまま積ん読中でした。

カテゴリーとしては川原泉『笑う大天使』系の……こう言うのなんて言うの? お嬢様学校学園コメディ? まあ、そんな舞台設定ではあるのですが、形式としてはその「聖マリアナ学園」の一クラブ「読書クラブ」の歴代部員が学園の裏の歴史を書きとどめておく部誌の紙面、というものです。

しかしながら少女小説にとどまらない、この作者の読書に対する並々ならぬ愛情が感じられる良書です。OGたちが経営する喫茶店が出てくる最後の場面など、ああ自分も死ぬまで本を読み続ける人生を送りたい、もう生涯文弱の徒でありたい、などとしみじみ感慨にふけってしまった。

遙か昔の異国で、我々のような者たちが赤煉瓦のビルの一室に集まり、冷たい孤独の狼煙を上げながら書物を読んでいたと考えることは、なかなか愉悦であった。だって我らはどぶ鼠の如く、日のあたらぬ薄暗い場所で集い、読み、議論し、いつしか年老いてただ朽ちていくのである。あぁ、なんという愉悦! なんたる贅沢!

というあたりとか、なんかもうね。

成井豊『あたしの嫌いな私の声』

読んだ本はなるべく全て、記録として残しておこうキャンペーン中です。

成井豊といえば劇団キャラメルボックス率いる劇作家。意外にも彼の小説作品は少なく、これは小説として出版された作品としては(つまり舞台化を前提に書かれたものをノベライズされたものをのぞけば)唯一のもらしいです。

とはいえ、やはり物語は「劇的」に進行します。ある女の子が声優として初めての仕事を任されることになったのですが、第一回目の録音を前にして声が出なくなってしまう。その原因はある強烈な力を持った男によって操られていた……とまあ、そんな話です。こういうのは好きずきでしょうか。ぼくはどっちかというとあんまり入り込めなかった。

前回エントリーで『夜は短し歩けよ乙女』を紹介した際に地名が効果的に使われている旨、書きましたがこの『あたしの嫌いな私の声』にも東京の地名が頻発します。

しかしいかんせん、効果的とは言い難い感じも。どこそこからなんという地下鉄に乗ったの、なんとかいう交差点で右に曲がったの言われても「わかったわかった」という感じにしか受け取れない。

これは単に地名が作者の舞台としたい場所を示す記号にしかなっていないこと、つまりはなぜその場所でなければならないのか、という部分に説得性がないからではないのか? という気もします。渋谷と一言に言っても、読者はそれぞれ読者の持つ渋谷感があるわけで、それにゆだねすぎている、あるいは作者と同じコードを読者が持ってるよねっ、ていうのを強要してくる、そのあたりが弱点なのかな。

以上、自戒も込めて、です。