【小説】ノブレス・オブリージュ〈第二章〉

     二 ある家族

 大学の中央食堂で東山圭史は同じフランス文学科の二人のクラスメイト、篠田有と日下部美佳と少し遅い昼食をとっていた。午前中最後の授業で取り上げられた「サルトルによるマラルメ批評」について、授業が終わった後も三人で教室に残って議論を続けていたため、食べることを忘れていたのだ。
 フロイトに対してもマルクスに対しても懐疑的な態度を貫く有に対して美佳は前者に肩入れし、圭史は後者に肩入れする。議論は次第にサルトル自身を離れ、十九世紀における両者の思想的解釈をめぐり、もはや学問の主流からは外れてしまった現代の受容のされ方との対比に移っていった。そして最後には互いの知識の限界を慰め合う。そもそもマラルメの詩など授業で配られたレジュメでしか三人は触れたことがなかった。
 空腹になるほど、戦わされている議論と空腹を言い出すこととのギャップに滑稽さを感じずにはいられない。それを知りながら議論に熱中することが三人にとっては「かっこいい」こととして共有されている。
 とにかく今、三人は日当たりの良い午後二時の空いた食堂の窓際でそれぞれのAランチをそれぞれの速度で口に運んでいる。中央食堂と言うからに構内に学部毎にある食堂の中でももっとも広くメニューも充実している。文学部のある二号館からは一番近くに位置するため、文学部専用の食堂というのは無く外部の人間も含めていつでも人がごった返している。それでも昼休みを三十分も過ぎた時刻だったので、それなりに空いてきている。休憩時間開始と同時にやってきただろういくつかのグループは食器を片付けにお盆を持って出口へと向かい始めている。
「そうだ、来週うちの叔父さんの出版記念パーティーがあるんだけどさ、よかったら来ない?」
 根つめた議論のあとの清涼剤にちょうどいい話題だと思って圭史は切り出した。
「ひがしの親父って、あの東山教授だっけ?」
 有がまず反応する。
「親父じゃない。親父の弟だ」
 圭史は訂正しながら彼に向かって箸で指す真似をする。
「あれ? それって公に語っていいことだったの?」
 その間に美佳が入ってくる。顔を見合わせていた男二人は同時に彼女の方へ首を回す。美佳は何か自分の言葉が場を刺激したのではないかと気を回すしかない。
「あっ、いや、東山先生の親戚が同じ大学にいるって聞いたことはあるんだけど。ひがし君の前でその話はタブーなのかなって勝手に思いこんでた」
「いや、ある意味タブーであることには間違いないよ。何せこいつはコネ入学──」
「違うって。ちゃんと試験受けて入ったよ」
 そう言いながら圭史の箸は今度は篠田の皿の上に伸びると、姜焼きの薄っぺらい豚肉の一切れをつまむ。そしてそのまま口の中に放り込んだ。「あっ」と篠田は声を上げる。
「まあ、そうだよね。ひがし君なんだかんだ言って頭いいし……あーあ、私もやっぱりアテネフランセ行こうかなあ。この前の仏検もだめっぽかったし」
「語学をダブルスクールするなんて贅沢だなあ。公認会計士とかにしときなよ」
「いやよ、お金数えるなんて」
 有に対して美佳は露骨にいやそうな顔をする。
「でもいいんじゃない? ぼくはこの夏休みは簿記を取る予定だよ」
 しかし圭史のその言葉に対しては二人は「は?」と声をそろえて驚きを示した。そしてその反応に対して圭史は一瞬、表情を曇らせる。それは明らかに口を滑らせてしまったことへの後悔のように読み取れた、もちろん目の前にいる二人にも。
「あれって商業科の高校生が勉強するものじゃないの?」
 ほとんど腫れ物をさわるかのように、それでいて突然の当惑を自分の中で処理しきれないといった体で有が言う。
「それは大きな偏見だよ。文学もいいけど、たまには純粋にロジックの世界にも没入してみたいんだ」
 わかったようなわからないような顔をしてから、美佳と有は出版記念パーティーの話へ戻ることにした。
 ところで圭史の叔父は彼の通う大学で西洋史学を教える準教授である。今年五十歳を迎えるが、少し白髪の交じった前髪をオールバックになでつけあごひげを伸ばした風采は目を引く。圭史と血がつながっていると聞けば誰もが驚くに違いない。専門はフランス史で、バブーフの思想とマルクス主義との比較を通じて現代の「平等主義神話」にまで言及した『護民官は機械仕掛けの平等を夢見るか?』が主著として知られる。授業はテキストを全く使わず、ぼやき老人のように現代の政治・社会問題に対して斜に構えたような皮肉を飛ばしながら訥々と進めていく。大教室であっても前列に座っている学生と意見交換しながら、時には潔く軌道修正もしていくスタイルは一部で熱狂的な「信者」も生んでいる。
「今回は戦後の少女マンガを総攬する画期的論考なんだってさ」
「あれ? あの人ってそういうサブカル的なことやる人だったっけ?」
「もともと好きみたいだけどね。そもそもあの人がフランス史に興味を持ったきっかけは『ベルサイユのばら』」
「あ、それ授業でも言ってた。あれを読むとフランス革命に対する理解度が試されるって」
「趣味が長じて、の典型なんだ」
 圭史はそれでも読ませてもらったゲラの内容をかいつまんで嬉しそうに二人に開陳する。曰く、そもそも少女マンガを語る上で木を見て森を見ずにならないためには広く少女文化の変遷をたどらなければならない。その絵画的表象の歴史的一現象として位置づけなければならない。瞳の描かれ方に代表される技巧や採用される題材の移り変わりをたどっても、その背後にある大きな文脈を取り逃がせば単なる独りよがりにしかならない。この論考でもっとも新しいのは山梨シルクセンターに端を発するサンリオ文化と、内藤ルネに関する学術的研究がおそらくは初めて試みられた点にある、云々。……
「それでパーティーはどこでやるの?」
「うん、まあ普通は出版記念だとどこかホテルの広間でも貸し切ってやるんだろうけど、今回もホームパーティー形式。基本的にあの人、親父と違って引きこもり体質なんだよ。人んちに出かけていくのは嫌がるんだけど自分の家に人を呼ぶのは大好きなんだ」
「そっか。ひがし君の家って新宿だっけ?」
「御苑のすぐ近く」
 千駄ヶ谷の東山家は御苑と神宮とにはさまれた地域にあり、高級住宅街というわけではないがほかの多くの学生たちが地方から出てきていたり東京都内でも区外の郊外から通っている中で、新宿に実家があるというのはある種の羨望を買うものだった。
「出版界のお偉方もたくさん来るんでしょ?」
「さあ、それはどうだろう。少なくとも書肆の社長さんは来るだろうけどね」
「わ、どうしよう。私も何か売り込んじゃおうかな」
「いいと思うよ。なんだったらぼくの方から話をしておいてもいいし」
 冗談のつもりで言った言葉を真に受ける圭史を見て美佳は一瞬信じられない、と言う顔をしたがすぐにげらげらと笑い出した。圭史はそんな彼女の様子を不思議そうに眺める。

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【小説】ノブレス・オブリージュ〈第一章〉【二稿】

     ──すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される(ルカによる福音書)

     一  画家の出発

 いつかこの景色を描いて世の中の人々に伝えたい、と熊谷磨理は思った。
 卒業式の朝、彼女は学校の屋上にいた。まだ肌寒い春の風が彼女の長い髪を白い首に絡ませる。昨夜の雨で濡れたコンクリートが灰色のまだら模様を作っている。乾ききっていない浅い水たまりには空の青が映っている。その上を、磨理は赤い上履きでわざとらしく踏みつける。
 髪の毛を手で押さえながらゆっくりと突端の手すりまで歩いていく。あまり端の方まで行きすぎると、校庭でいまごろ紅白の横断幕を広げたり畳んだりしている要領の悪い阿部先生なんかに見つかってしまうな、と思いながらも彼女は常にそうしていたように、自分の背の高さの二倍もあろうかと思われる柵に両手でぶら下がる。金属の冷たい手触りが掌の内側に冷たく気持ちいい。体は熱い。彼女はそのまま顔を上げた。
 今、一番空に近い。
 磨理は高校三年の夏になってもいっこうに受験勉強というものをしていなかった。ましてや就職のことなど相談する相手に困るどころか、就職する必要なんてまだないと思っていた。迷っていた、というのはそういう自分の考えがあまりに周りの友達と違っていて誰にもわかってもらえなかったがために自信を持てなかった、ということだ。迷っている自分に自信を持つ、というのも変な話かもしれない。それが当たり前ででもあるかのように専門学校のパンフレットや分厚い大学案内、あるいは地元工場の、人の想像力を微塵だに刺激することのない求人案内──そういうものが教室のそこここに見え始めたとき、磨理は吐き気を催した。遅い生理のようだった。

 足を地面から放したまま上を見上げると、青空と、そして視界のずっと上の方にポールにはためく校旗がぱたぱたと音を立てながらひらめいているのが見えた。前髪は背中へ吹かれている。目が乾いてくる。こことも今日でお別れだ。そして夜にはこの街ともお別れだ。そう思って目をつぶる。遠くの空港から北へ飛び立つ飛行機の音が低く響いてくる。学校の周りを囲む杉林からかすかな花粉の匂いがただよってくる。おぼえておこう、灰色の制服に染みついたこの土地の色や音や匂いや光を。
 次に目を開けたとき、ポールの下からするすると日章旗が上がってくるのが目に入ってきた。まずい、人がいると思って柵から手を放して着地すると頭の上から声が聞こえた。
「おや、今日卒業式の生徒さんかい?」
 見れば、箱形の給水塔の上で用務員がするするとロープに手を上下させて旗を揚げている。
「コッカケイヨウの練習ですか?」
「国歌は斉唱、国旗は掲揚、ね。まあ、一年で一度の、私にとっても晴れ舞台だから」
 男は目を細めながら風にばたばたと音をさせながらはためいている大きな日章旗を見上げる。磨理もタンクの近くへ行くと、二つの旗を見上げた。
「卒業したらどうするね?」
「卒業したら?」
「ああ。大学か? それとも就職か?」
「どっちでもないかな」
「ええ?」
 男は信じられない、という声を上げる。
「それじゃ、おじさん。三年間、どうもありがとうございました。この学校のことは忘れないし、いつかそのことをおじさんも知ってくれる日が来るのを私は信じてる」
 磨理はそれだけ言い残すと、ぽかんとしている用務員を置いてさっさと校舎の中へと戻っていった。ばたん、と屋上の扉は風にあおられて強い音を立てた。
 階段を下りていくと、なじみの匂いが……と思えば踊り場でちょうど上へ上がってきた本田教諭と磨理は出会った。本田教諭は四十歳を少し越えた美術の教師で、いつでも油絵の具の匂いのする白衣──それも「白衣」と呼べるほど白くはなく、様々な色が飛び散っている代物だったが──を着て歩き回っていた。
「あら、熊谷さん。屋上にでも行っていたの? 卒業式の日に停学なんて聞いたことないわよ?」
「煙草なんて吸ってません!」
「アッハハ。それならいいけど。この学校の生徒だけはそういうことしないと私は信じてるからね」
「今時の高校生なんて学校で隠れてなんて吸いませんよ。駅でぷかぷかやってるの、見たことありません?」
「そうなの? 駅の方は私あまり行かないから見たことないけど」
「いや、こんな田舎の駅じゃなくて」
「知ってる? しういうのを見ると、教師って通報する義務があるらしいのよ。学校の中ならともかくねえ。なるべく見ないようにしているわ」
「だめ教師……」
 そんなことを言い合いながら二人は笑った。
「でも本当に、ありがとうございました」
「いいえ。私の方こそ、いろんなことにけしかけてしまったかもしれないわね」
「そんなこと、ありません。おかげで、進路も決めたし」
「進路? そういえば、熊谷さんって卒業したらどうするつもりなのか私、全然知らないわ」
「へへっ」
 磨理は舌を出すとだだだっと脱兎のごとく階段を駆け下りていく。
「熊谷さん!」
 階段の下まで降りると磨理は振り仰いで踊り場の本田を見上げる。天井近い窓から差し込む朝の光が本田の姿を真っ黒にしている。
「式が終わったら美術室まで来てくれる? あなたの作品、たくさん置きっぱなしだから」
「わかりました」
 磨理は軽く手を振り上げると、教室へそのまま走っていった。午前七時四十分。校舎はひっそり閑としている。足音を廊下中に響かせながら三年三組の教室にまでたどり着くと、その重い入り口の扉を開ける。電気がついておらず、朝日だけでちょっとだけ薄暗い教室。窓際の自分の席まで行くと、磨理は机の上にカバンを置く。そして大きな窓を開けた。
 ──卒業したらどうするの?
 みんなが私にそう聞いて来る。
 最後の夏休み、磨理はなにもしていなかった。ただ毎日きちんと制服を着て、お弁当を作って、学校の屋上に来ていた。彼女の横にはいつだって真っ白なスケッチブックが開きっぱなしになっていた。
 私には描くべきアクシデントもハプニングもなく、ただただ動かないリンゴやら花瓶やら会ったこともない古代ギリシャ人の石膏像をひたすら描いていた。それはただの形でしかなかった。磨理にはそれでは、足りなすぎた。正直に言えば、画は描けたのだ。描けと言われれば何でもそこそこ上手に描くことが彼女には出来ていた。
 そして、彼女は更級の少女のように物語を欲した。
 東京に行けばストーリーがごろごろ転がっていて、道を歩いているだけで自分の身にも降りかかってくるような気がしていた。あるいは、そう思うことでテーマもメッセージもない、ただの絵、純粋な絵、それを描き続けることの無意味さに抗っていた。
 考えることに疲れると、磨理は屋上でぼんやりと白紙を眺めたものだ。白紙は彼女にとって恐怖ではなかった。白紙は彼女にとって埋めるべきなにかではなかった。ときどき強い湿った風がふいて、そのページをバラバラとめくっていく。……

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ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督『グミ・チョコレート・パイン』

グミ・チョコレート・パイン通常版
グミ・チョコレート・パイン通常版
ケラリーノ・サンドロヴィッチ,石田卓也,黒川芽以,大森南朋,柄本佑,森岡龍,マギー,甲本雅裕,金井勇太,山崎一,高橋ひとみ,犬山イヌコ

を、見ました(DVD)。

一言で言えば、中二病とセカチューのコラボ、といった感じでしょうか…。どっちかひとつにしたらいいのに、とも思ったのですが大森南朋が相変わらずかっけーのでいいか。犬山イヌコもいい味出しています。往年の日本放送を思い出してしまいます。

第三者的に作品としてみてしまうといろいろ口出ししたくなるところもあったりするのですが、これはやっぱり大の大人が男の子だったときのことを思い出しながらもんどりうって見る映画なのでしょう。そうして過去が自分の厚みにちゃんとなっているのか確認するような…。


神谷美恵子『生きがいについて』

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)
生きがいについて (神谷美恵子コレクション)
神谷 美恵子,柳田 邦男

を、読みました。

著者は改めて言うまでもありませんがハンセン病の治癒に献身した精神科医として知られます(一時期まで金井美恵子とごっちゃになっていました、ごめんなさい)。

その療養施設での体験を通じて、絶望の底にある人間がいかにして精神的な強度を持ちながら生き続けるか、そのために「生きがい」がいかに大切であるかを深く深く追求していく本です。

正直言って、打ちのめされました。

そしてこんなにもこの本の言葉の一つ一つが自分にとって、まるで砂漠で旅を続ける人が追い求めた水のようにここまでしみわたるとは、予期していなかった。

それは、浴びるほどの水ではないけれど、かといってすぐに蒸発してしまいそうな一滴でもない。ちょうど喉を潤すのにちょうど良いコップ一杯分くらいの水です。つまりそれは、飲み終えたらまた相変わらず歩き続けなければならないということ──まさにそのことを、この本は教えてくれます。

1ページに1カ所は線を引っ張りたくなる箇所があり、引用するならばこの本まるまる一冊引用しなければ意味をなさないです。まずは読んでほしい。


天野敦之『会計のことが面白いほどわかる本<会計基準の理解編>』

会社法対応 会計のことが面白いほどわかる本<会計基準の理解編>” /></a><br />
<a href=会社法対応 会計のことが面白いほどわかる本<会計基準の理解編>
天野 敦之

を、読みました。

会社に入ってすぐの頃に〈基本の基本編〉とあわせて購入したままほったらかしになっていた本です。

一連の会計制度改革が入社後数年の間に行われたこともあって、減損会計だの退職金給付会計だの新制度についての新単語は耳にしていたのですが、業務として触れることはなく内容も不勉強のままでした。

この本は懐かしの実況中継シリーズを彷彿とさせる紙質、表紙デザイン、語り口で取っつきやすかったのがよかったです。が、いかんせん、頭の固いわたくしめには一度読んだだけでは理解の至らないところがいくつも…。人間、一生勉強ですね。と、こんなところで。


Scott Berkun,村上 雅章『アート・オブ・プロジェクトマネジメント』

アート・オブ・プロジェクトマネジメント ―マイクロソフトで培われた実践手法 (THEORY/IN/PRACTICE)
アート・オブ・プロジェクトマネジメント ―マイクロソフトで培われた実践手法 (THEORY/IN/PRACTICE)
Scott Berkun,村上 雅章

を、読みました。

最近ようやくPMという略語も定着してきたようにも思います。この本はIT系の開発プロジェクトをいかに管理・進行していくかのマネジメント業務の教科書。けれどそれはあらゆる業務に対する一つのメタファーとして、あるいは言葉そのままに、活用できます。

ぼくの所属する経理室でも今かなり大がかりなIT化のプロジェクトが進行していて、システム屋さんと話をすることも多いのですが、この本を読むとユーザの立場で接する時とは違って、彼らが普段どのような思想で仕事を進めているのかがかいま見られるのはとても興味深いし、考え方として有益なものはどんどん取り入れていきたいと思わせる。

基本的に開発業務というのは

1.ユーザの要望ヒアリング
2.開発要件の定義・工数見積もり
3.開発作業
4.ユーザによるテスト
5.ユーザによる承認(あるいは細部の改変)
6.リリース

という手順を取ります。この本では2にあたる部分──外部設計書・要件定義書・仕様決定書などと言われている開発前にユーザに対して「この仕様で開発しちゃうけどいいよね」という内容を書いた文書──の書き方に始まって、実際の開発作業の中でいかにプログラマに気持ちよく仕事をしてもらうかといったところにまでかなり言葉を尽くして語られています。

さすがにシステム屋の著書だからなのか英語からの翻訳だからなのか文章が構造的・理論的・簡潔で、非常に読みやすい。

あらゆる業務を個々のプロジェクトとして捉えたとき、自らはプロジェクトマネジャーとなるわけです。そうするとさっきの進行表はこんな風になる(番号は対応してないけど)。

1.問題発生
2.現状把握→文書化→関係者に認知
3.解決策の定義(利害関係の調整)
4.いざ実行(人にやってもらうことが多いので進捗確認も)
5.問題が解決したかの検証
6.場合によっては飲み会

ルーティン業務はさておいて、予算策定や日々出来する個々の問題も全て上のひな形に当てはめることができると思います。その時、この本で語られる様々なTipsは本当に役立つと思う。

懸案事項の効果的なマネジメントは、純粋にやる気の問題となります。誰かが問題になりそうな物事を調査し、それを文書化するために時間を割かなければならないのです。ここには何の仕掛けもありません。いったん文書化されれば、優先順位をつけ、誰かに割り当て、解決することができるのです。

ことプロジェクトマネジメントに関して言えば、人が意志決定に失敗する原因は多くの場合、その意志の薄弱さや経験不足にあるのではなく、行うべき様々な意志決定にかける労力が不十分であったことに起因するのです。

精度の高い数値(例えば作業工数が5.273日)が提示されたからといって、それが大まかな数値(4~5日)よりも正確であるとは言えません。

などなど。

特に8,9,10,11章はコミュニケーションスキルについて詳説されていて、そういうのを聞くと鼻白む人も多いとは思うのですが、そしてぼく自身そういう類の人間だとは思っていたのですが、「傲慢にならずに耳を傾けろ」と著者に示唆されます。むしろ傲慢になりやすい人に対してこの本は書かれているように思います。

メールの書き方や会議の開き方など業務の中でも当たり前すぎて人に教わることのないことも改めて「こうするといいよ」と教えてくれる機会なかなか貴重なのでは。今一度、新入社員に戻った気持ちでマネジメント(ここでいうマネジメントは部下の管理ではなくて業務の進捗管理のことね)のいろはを勉強してみたいと思いました。


ショウペンハウエル『自殺について』

自殺について 他四篇 (岩波文庫)
自殺について 他四篇 (岩波文庫)
ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤 信治

『意志と表象としての世界』も未読なぼくがショーペンハウエルについて云々するのはおこがましい限りですが、この本で気になるのは「時間」に対する考え方です。

〈…〉我々は我々の時間的な終末を一種の滅亡であると考えることになる。これは時間という形式をひながたにしてものを考えているためなのであって、この形式たるや、それの基盤となっている物質がそれから奪い去られる場合には、無に帰するものなのである。

時間という認識形式のために、人間(即ち生きんとする意志の肯定の最高の客観化の段階)は、絶えず新たに生まれては死んでゆく人間の種族即ち人類として現れてくるのである。

千年前にもちょうどこんな風にほかの人達が坐っていた、それは全く同じ風であり同じ人達であった。千年後にもやはり同じ光景が繰り返されることであろう。この事実を我々に気づかせないようにしている仕掛が、時間なのである。

いくつか引用してみました。

特に最後の引用は詩的でもあり、いささかの救済を与えようとしている意志も感じられます。

人間が意識を持って生きている以上、時間という流れの中に閉じこめられていることは確かですが、かといってそこから抜け出すことはできません。

あるいは、抜け出そうとする努力というのは(それが具体的にどのようなものになるのかはさっぱり見当もつきませんが)滑稽というものでしょう。

けれどもそれが一つの形式でしかないと一方で意識することは、なにかこう、考えることの出発点にもなりうると思います。

なにもノスタルジーの余韻に浸ることを是としているわけではなく、しかしながらただ闇雲に「明るい未来」を根拠もなく夢想するでもない。それはもう、時間という概念に足をすくわれています。

ショーペンハウエルの主張はけれど主張ではありません。〈だから時間を超越しろ〉という主張はついに書かれることはなく、ただ淡々と、ぼくたちの立ち位置を示してくれています。そうしてたとえば千年前の人間の営みを、あるいは千年後の人間の営みを「ああ、彼らも相変わらずぼくたちと同じことで頭を悩ませていた(る)んだ」と考えることで少しだけ認識としての時間をゆがませることが出来る。だから百年以上前の人が残した言葉が、こうして、生々しい。


田中貴子『検定絶対不合格教科書古文』

検定絶対不合格教科書古文 (朝日選書 817) (朝日選書 817)
検定絶対不合格教科書古文 (朝日選書 817) (朝日選書 817)
田中 貴子

を、読みました。

たまには国文科出身らしく、古文をたしなもうかなと。

この本では教科書に良く採られる有名古文──たとえば枕草子の香炉峰の雪だとか児子の空寝だとか木曽の最期(刀を口にくわえて馬から飛び降りるってやつね)──を改めて読み解きながら、学校教育的な解釈(一夫一婦制の絶対とか純潔主義とか)に対してほんとにほんとにそれ正しいのか? というつっこみを容赦なく入れていきます。それぞれの研究史も良く紹介されていて、その点では非常に勉強になる本です。

この本自体が一つの教科書としての体裁を採っているため、通常の教科書では採られない古文、あるいは金色夜叉などの擬古文や洒落本・滑稽本の類も紹介されています。

ぼく自身は大学に入ってから初めて近世古文に目覚めたのですが、たぶん国文科に進学していなかったら一生西鶴や俳諧の面白さに触れることはなかったんだろうなあ。

今の高校生が副読本として読めば、古文の世界が教科書だけではないということに触れられる絶好の機会になるはず。特に初期?外や硯友社系の文体って今のカリキュラムからはごっそり抜け落ちているので、明治擬古文の勉強なんて京大でも受けない限り一生やることはないのではないか? 今更ながら国語教育において、現代文と古文とかそれぞれになっている役割分担というのがよくわからなくなります。


今福龍太『野性のテクノロジー』

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を、読みました。

今福龍太はあまりなじみのない学者ではあったのですが、別の本を読んだときに面白くて、今回絶版ながらその主要著作の一つとしてあげられる『野性のテクノロジー』を読みました。

勘のいい人はすぐにわかるかもしれませんが、題名からして文化人類学系の本です。しかしながら95年に出版された本とは信じがたいほど、現代的な問題を扱っています。

特に第二章「プリミティヴィズムの中心と周縁」が興味深い。

だまし絵を通じて、いかに人間が一つの視覚パターンに縛られているのかをあぶり出した上で、現代人の五感がいかに分節されているか、あるいは黙読中心主義の学校教育によって分断されてしまったのかを言い当てる。ぼくたちは図書館や美術館、映画館でどう振る舞えばよいかをいつの間にかたたき込まれて不自由な身体を引きずっている。子どもが好きだったあの種々のクオリア。「目だけにたよったハンターは手ぶらで帰る」というエスキモーの箴言。

芸術の世界において「黙読中心主義」「視覚のヒエラルキー」に反旗を翻したのがまさにシュルレアリストでありロシア構成主義者たちだった。そこにウェーベルン、ケージ、メイエルホリドらを加えてもいいだろう。そしてピカソの「アヴィニョンの娘たち」を引き合いに出しながら一体何がプリミティブで何がモダンなのかが解体していく様を活写します。

つまりペンデ族の仮面のここでの美学的地位は、ひとえにそれが持つピカソ作品との親縁性に支えられているのだ。いわばここでは、オリジナルのほうがコピーによってその正当性を付与されるという奇妙に逆転した関係がある。

このあたり、か・な・り、脱構築的。モダンアートにおいてはもはや「ルーツ」という考え方は否定されるのです。

本書に出てくる芸術家たちはなかなか普段接触する機会のない人たちばかりです。ソローはともかくとしても画家エミール・ノルデ、ディエゴ・リベラ、映像作家マヤ・デーレン、写真家セバスティアン・サルガード……本書はそうした日本ではマイナーな作家たちの作品も多くの図版を取り入れながらわかりやすく紹介してくれています。中沢新一ほど色気はありませんが、充分に読ませる一冊。