月別アーカイブ: 2008年8月

ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督『グミ・チョコレート・パイン』

を、見ました(DVD)。

一言で言えば、中二病とセカチューのコラボ、といった感じでしょうか…。どっちかひとつにしたらいいのに、とも思ったのですが大森南朋が相変わらずかっけーのでいいか。犬山イヌコもいい味出しています。往年の日本放送を思い出してしまいます。

第三者的に作品としてみてしまうといろいろ口出ししたくなるところもあったりするのですが、これはやっぱり大の大人が男の子だったときのことを思い出しながらもんどりうって見る映画なのでしょう。そうして過去が自分の厚みにちゃんとなっているのか確認するような…。

神谷美恵子『生きがいについて』

を、読みました。

著者は改めて言うまでもありませんがハンセン病の治癒に献身した精神科医として知られます(一時期まで金井美恵子とごっちゃになっていました、ごめんなさい)。

その療養施設での体験を通じて、絶望の底にある人間がいかにして精神的な強度を持ちながら生き続けるか、そのために「生きがい」がいかに大切であるかを深く深く追求していく本です。

正直言って、打ちのめされました。

そしてこんなにもこの本の言葉の一つ一つが自分にとって、まるで砂漠で旅を続ける人が追い求めた水のようにここまでしみわたるとは、予期していなかった。

それは、浴びるほどの水ではないけれど、かといってすぐに蒸発してしまいそうな一滴でもない。ちょうど喉を潤すのにちょうど良いコップ一杯分くらいの水です。つまりそれは、飲み終えたらまた相変わらず歩き続けなければならないということ──まさにそのことを、この本は教えてくれます。

1ページに1カ所は線を引っ張りたくなる箇所があり、引用するならばこの本まるまる一冊引用しなければ意味をなさないです。まずは読んでほしい。

天野敦之『会計のことが面白いほどわかる本<会計基準の理解編>』



を、読みました。

会社に入ってすぐの頃に〈基本の基本編〉とあわせて購入したままほったらかしになっていた本です。

一連の会計制度改革が入社後数年の間に行われたこともあって、減損会計だの退職金給付会計だの新制度についての新単語は耳にしていたのですが、業務として触れることはなく内容も不勉強のままでした。

この本は懐かしの実況中継シリーズを彷彿とさせる紙質、表紙デザイン、語り口で取っつきやすかったのがよかったです。が、いかんせん、頭の固いわたくしめには一度読んだだけでは理解の至らないところがいくつも…。人間、一生勉強ですね。と、こんなところで。

Scott Berkun,村上 雅章『アート・オブ・プロジェクトマネジメント』

 

を、読みました。

最近ようやくPMという略語も定着してきたようにも思います。この本はIT系の開発プロジェクトをいかに管理・進行していくかのマネジメント業務の教科書。けれどそれはあらゆる業務に対する一つのメタファーとして、あるいは言葉そのままに、活用できます。

ぼくの所属する経理室でも今かなり大がかりなIT化のプロジェクトが進行していて、システム屋さんと話をすることも多いのですが、この本を読むとユーザの立場で接する時とは違って、彼らが普段どのような思想で仕事を進めているのかがかいま見られるのはとても興味深いし、考え方として有益なものはどんどん取り入れていきたいと思わせる。

基本的に開発業務というのは

1.ユーザの要望ヒアリング
2.開発要件の定義・工数見積もり
3.開発作業
4.ユーザによるテスト
5.ユーザによる承認(あるいは細部の改変)
6.リリース

という手順を取ります。この本では2にあたる部分──外部設計書・要件定義書・仕様決定書などと言われている開発前にユーザに対して「この仕様で開発しちゃうけどいいよね」という内容を書いた文書──の書き方に始まって、実際の開発作業の中でいかにプログラマに気持ちよく仕事をしてもらうかといったところにまでかなり言葉を尽くして語られています。

さすがにシステム屋の著書だからなのか英語からの翻訳だからなのか文章が構造的・理論的・簡潔で、非常に読みやすい。

あらゆる業務を個々のプロジェクトとして捉えたとき、自らはプロジェクトマネジャーとなるわけです。そうするとさっきの進行表はこんな風になる(番号は対応してないけど)。

1.問題発生
2.現状把握→文書化→関係者に認知
3.解決策の定義(利害関係の調整)
4.いざ実行(人にやってもらうことが多いので進捗確認も)
5.問題が解決したかの検証
6.場合によっては飲み会

ルーティン業務はさておいて、予算策定や日々出来する個々の問題も全て上のひな形に当てはめることができると思います。その時、この本で語られる様々なTipsは本当に役立つと思う。

懸案事項の効果的なマネジメントは、純粋にやる気の問題となります。誰かが問題になりそうな物事を調査し、それを文書化するために時間を割かなければならないのです。ここには何の仕掛けもありません。いったん文書化されれば、優先順位をつけ、誰かに割り当て、解決することができるのです。

 

ことプロジェクトマネジメントに関して言えば、人が意志決定に失敗する原因は多くの場合、その意志の薄弱さや経験不足にあるのではなく、行うべき様々な意志決定にかける労力が不十分であったことに起因するのです。

 

精度の高い数値(例えば作業工数が5.273日)が提示されたからといって、それが大まかな数値(4~5日)よりも正確であるとは言えません。

などなど。

特に8,9,10,11章はコミュニケーションスキルについて詳説されていて、そういうのを聞くと鼻白む人も多いとは思うのですが、そしてぼく自身そういう類の人間だとは思っていたのですが、「傲慢にならずに耳を傾けろ」と著者に示唆されます。むしろ傲慢になりやすい人に対してこの本は書かれているように思います。

メールの書き方や会議の開き方など業務の中でも当たり前すぎて人に教わることのないことも改めて「こうするといいよ」と教えてくれる機会なかなか貴重なのでは。今一度、新入社員に戻った気持ちでマネジメント(ここでいうマネジメントは部下の管理ではなくて業務の進捗管理のことね)のいろはを勉強してみたいと思いました。

ショウペンハウエル『自殺について』

 

『意志と表象としての世界』も未読なぼくがショーペンハウエルについて云々するのはおこがましい限りですが、この本で気になるのは「時間」に対する考え方です。

〈…〉我々は我々の時間的な終末を一種の滅亡であると考えることになる。これは時間という形式をひながたにしてものを考えているためなのであって、この形式たるや、それの基盤となっている物質がそれから奪い去られる場合には、無に帰するものなのである。

 

時間という認識形式のために、人間(即ち生きんとする意志の肯定の最高の客観化の段階)は、絶えず新たに生まれては死んでゆく人間の種族即ち人類として現れてくるのである。

 

千年前にもちょうどこんな風にほかの人達が坐っていた、それは全く同じ風であり同じ人達であった。千年後にもやはり同じ光景が繰り返されることであろう。この事実を我々に気づかせないようにしている仕掛が、時間なのである。

いくつか引用してみました。

特に最後の引用は詩的でもあり、いささかの救済を与えようとしている意志も感じられます。

人間が意識を持って生きている以上、時間という流れの中に閉じこめられていることは確かですが、かといってそこから抜け出すことはできません。

あるいは、抜け出そうとする努力というのは(それが具体的にどのようなものになるのかはさっぱり見当もつきませんが)滑稽というものでしょう。

けれどもそれが一つの形式でしかないと一方で意識することは、なにかこう、考えることの出発点にもなりうると思います。

なにもノスタルジーの余韻に浸ることを是としているわけではなく、しかしながらただ闇雲に「明るい未来」を根拠もなく夢想するでもない。それはもう、時間という概念に足をすくわれています。

ショーペンハウエルの主張はけれど主張ではありません。〈だから時間を超越しろ〉という主張はついに書かれることはなく、ただ淡々と、ぼくたちの立ち位置を示してくれています。そうしてたとえば千年前の人間の営みを、あるいは千年後の人間の営みを「ああ、彼らも相変わらずぼくたちと同じことで頭を悩ませていた(る)んだ」と考えることで少しだけ認識としての時間をゆがませることが出来る。だから百年以上前の人が残した言葉が、こうして、生々しい。

田中貴子『検定絶対不合格教科書古文』



を、読みました。

たまには国文科出身らしく、古文をたしなもうかなと。

この本では教科書に良く採られる有名古文──たとえば枕草子の香炉峰の雪だとか児子の空寝だとか木曽の最期(刀を口にくわえて馬から飛び降りるってやつね)──を改めて読み解きながら、学校教育的な解釈(一夫一婦制の絶対とか純潔主義とか)に対してほんとにほんとにそれ正しいのか? というつっこみを容赦なく入れていきます。それぞれの研究史も良く紹介されていて、その点では非常に勉強になる本です。

この本自体が一つの教科書としての体裁を採っているため、通常の教科書では採られない古文、あるいは金色夜叉などの擬古文や洒落本・滑稽本の類も紹介されています。

ぼく自身は大学に入ってから初めて近世古文に目覚めたのですが、たぶん国文科に進学していなかったら一生西鶴や俳諧の面白さに触れることはなかったんだろうなあ。

今の高校生が副読本として読めば、古文の世界が教科書だけではないということに触れられる絶好の機会になるはず。特に初期?外や硯友社系の文体って今のカリキュラムからはごっそり抜け落ちているので、明治擬古文の勉強なんて京大でも受けない限り一生やることはないのではないか? 今更ながら国語教育において、現代文と古文とかそれぞれになっている役割分担というのがよくわからなくなります。

今福龍太『野性のテクノロジー』

を、読みました。

今福龍太はあまりなじみのない学者ではあったのですが、別の本を読んだときに面白くて、今回絶版ながらその主要著作の一つとしてあげられる『野性のテクノロジー』を読みました。

勘のいい人はすぐにわかるかもしれませんが、題名からして文化人類学系の本です。しかしながら95年に出版された本とは信じがたいほど、現代的な問題を扱っています。

特に第二章「プリミティヴィズムの中心と周縁」が興味深い。

だまし絵を通じて、いかに人間が一つの視覚パターンに縛られているのかをあぶり出した上で、現代人の五感がいかに分節されているか、あるいは黙読中心主義の学校教育によって分断されてしまったのかを言い当てる。ぼくたちは図書館や美術館、映画館でどう振る舞えばよいかをいつの間にかたたき込まれて不自由な身体を引きずっている。子どもが好きだったあの種々のクオリア。「目だけにたよったハンターは手ぶらで帰る」というエスキモーの箴言。

芸術の世界において「黙読中心主義」「視覚のヒエラルキー」に反旗を翻したのがまさにシュルレアリストでありロシア構成主義者たちだった。そこにウェーベルン、ケージ、メイエルホリドらを加えてもいいだろう。そしてピカソの「アヴィニョンの娘たち」を引き合いに出しながら一体何がプリミティブで何がモダンなのかが解体していく様を活写します。

つまりペンデ族の仮面のここでの美学的地位は、ひとえにそれが持つピカソ作品との親縁性に支えられているのだ。いわばここでは、オリジナルのほうがコピーによってその正当性を付与されるという奇妙に逆転した関係がある。

このあたり、か・な・り、脱構築的。モダンアートにおいてはもはや「ルーツ」という考え方は否定されるのです。

本書に出てくる芸術家たちはなかなか普段接触する機会のない人たちばかりです。ソローはともかくとしても画家エミール・ノルデ、ディエゴ・リベラ、映像作家マヤ・デーレン、写真家セバスティアン・サルガード……本書はそうした日本ではマイナーな作家たちの作品も多くの図版を取り入れながらわかりやすく紹介してくれています。中沢新一ほど色気はありませんが、充分に読ませる一冊。

 

河合隼雄,茂木健一郎『こころと脳の対話』

を、読みました。

河合隼雄といえばやはり対談が抜群に面白い。これまでも村上春樹との対談本は何度読み返したかしれません。またよしもとばななとの対談も興味深いものでした(いずれも新潮文庫で読むことができます)。

さて脳科学と心理学のそれぞれを代表する二人がどんな対談をするのかと、そしてまた河合隼雄の新刊著書としては最後になるのではないかという気持ちもありながらページをめくります。

科学的な立証性・再現性を追求する脳科学によってこの先脳の全てがわかったとしても、それで「こころ」の全てがわかるというものではない、そしてだからこそ河合は自身の主催する学会においては「事例報告」に特化し、あるいは茂木は脳科学が科学として扱える学問領域の限定性に煩悶する。このあたりが読みどころです。

科学的であること、定量的評価ができること、そういうわかりやすさに足をすくわれることは会社生活においても大いにあり得ます。そこでうち捨てられる「クオリア」的な語り得ぬもの──それこそが仕事で大事なんだとうそぶく先輩社員の暑苦しさ! あるいは「人にものを頼むときはメールじゃなくて電話にしなよ」なんて説教する御仁は語り得ぬ何かを徹底的にマニュアル化(言語として徹底的にこの世界に定着させる)しなければ気が済まないのかもしれない。

 「年収いくらですか」といったら、年収の高い人から低い人まで全部順番がつくでしょう。それは、一人ひとり分けているようで、なにも分けていないですね。お金で分けているだけなんだけれど、それでみんな錯覚を起こしている。
 そして、ちょっとでもみんなよりお金の多いほうに行こうとしたりする。そうして頑張っているようだけど、実は個性を摩滅させるほうに頑張っているわけですよ。(河合)

けれど定性的な物言いに安住することもまた危険なことなのでしょう。ぼくたちはまずは言語化、数値化のフロンティアまで進み行かなければなりません。そこで初めて語り得ぬものに対しては口をつぐむのか、さらなる新しい言語を生み出していくのかを選択する権利が与えられるように思います。

外山滋比古『忘却の力』

 

みすずのエッセイ集は高くつくのであんまり買えないのですが、題名が魅力的だったので思い切ってみました。「忘却」というテーマに必ずしも寄り添ったものばかりではありませんが、著者近年の連載エッセイをまとめたもの。

この本で繰り返し主張されるのは距離が価値を生む、ということ。それは空間的にも時間的にも。

たとえば歌枕なんて訪ねてみるもんじゃない──現代で言えばテレビのロケ地なんて訪ねるものじゃない、遠くでイメージをふくらませることが喜びなのだ、という内容は何度か繰り返し出てきます。あるいは本も、自分とは遠い境遇にある著者のものが面白い──現代小説よりも外国の古典に心引かれるもの、といったような。

一方でサラリーマンが読んで面白い内容も。人間にとっては生活のリズムが第一であるからして日曜日の過ごし方を真剣に考える必要がある、とか、激務の人ほど定年後すぐ死んでしまう、その人生を急停止させることの恐ろしさであるとか、なかなか多岐にわたる内容です。

この著者級レベルになってくると書くもの一つ一つが衒学趣味から脱しきっていて、時にわがまま放題だったり怒りをあらわにしたり、そのあたりの直截さが読んでいて爽快です。言うだけのことは言うけど、あとそれを受け取るのは読者の好きにしてください、とでも言いそうな感じがとても良い。