寝坊する

朝起きたら、時計は10:07分を示していた。会社のフレックスというのは10時までなので、つまりは10時以降に会社に来る場合は午前を半休にして午後出社にしなければならない。仕方がないので電話をしてそのようにしてもらった。

会社に入ってから寝坊というのは数えるくらいしかないのだけれど、それだけにちょっとショックではあった。なんというか、約束と時間を守るのだけは社会人として最低限だと思っていたので、こうやって時々すっぽ抜けると自分が信じられなくなる。

まあ、それはお得意の拡大解釈として、妙に時間が空いたので市役所に行って自動車税を払い、出そう出そうと思っていた郵便物をポストに投函しに行くことができた。本当だったら午後抜け出して行こうと思っていたのでちょうど良かったといえばちょうど良かった。

来月から大きな担当替えがあって、ぼくはやっと2年間のローテーションを終えてちょっとまた別の仕事に従事することになるわけだが、今週はちょうどその端境期で(「はざかいき」ってこんな漢字だったんだ)、上司もずっと出張で出ずっぱりでどうもふわふわしてしまってしょうがない。新人もあと一週間で入ってくることだし、彼らの指導員という任もあるので準備しなければならないこともあるのだけれど、まあ気を抜ける時くらいは気を抜いてもいいかなという気持ちもある。

とはいえ、今日の寝坊は気を引き締め直すきっかけとして大いに活用しましょう。三島由紀夫の硬質な文体のように、ありたい。


豊島ミホというのは

出自が出自なだけにぼくはてっきりエロ小説家かと思っていたのですが、青春小説書いているんですね。未読だけど最近映画にもなった『檸檬のころ』とか。

同い年なだけに、気になります、豊島ミホ。

『神田川デイズ』は豊島による『オレンジデイズ』なのでしょう(ていうか、『檸檬のころ』もタイトルが若干かぶっているな)。もう、めちゃくちゃ、なつかしいくらいの大学生活を描いてくれています。こういうのを楽しんでしまう年になってしまったんだなー、自分も。

ちなみにしゃもぢによるオレンジデイズ、「高炉とカーテンウォール」はいよいよ目途がついてきました。後半が書けなくて書けなくていろいろ葛藤していたのですがそれも解決しそうで、あとは詰めるだけ。ラストシーンがなかなかどうもまだ思い浮かびませんが、でも小説の最後を考えるというのは百枚を超える小説を書く中で一番甘美な時間なので、まだとっておくことにします。

今日は同期の引っ越しの手伝い。天気が良かったので写真ブログに上げときました。


柳楽つながりで

『誰も知らない』を見ました。
勝手に家族もののほのぼのしたものかと思っていたのですが、けっこうボディーブローというかじわじわと見たあとさいなんでくる映画でした。

例のコンクリ事件の詳細を知ってしまったときのような、人間の人間であることのギリギリの部分を見せつけて来るという意味ではかなり苦い味がします。主人公が子供なのでなおさら。

つい昨日、長塚圭史の(というか三好十郎の)『胎内』をDVDで見たのですが、たぶん、同じことを言っている。それがなんなのかはまだ言葉にならないのだけれど。

なんのために人間は生まれてきたのか?

なんのために人間は生きるのか?

この二つの問題は意外と次元を異にしているように思われるのだけれど(ぼくだけ?)、きっと答えは同じであるはずだ。

そしてもっとも残酷なのは答えを持たないままなおもぼくらが行き続けなければならないということなのでしょう。『胎内』で長塚が叫ぶあのニヒリズムを柳楽演ずる少年は知らないけれど、それを現代においてもっとも体現しているとすれば彼なのでしょう。

是枝監督の『ワンダフルライフ』も見てみたいなあ。レンタルにないんだよなあ。


しゃもぢ2.0へ!

フューチャリスト宣言
フューチャリスト宣言
梅田 望夫, 茂木 健一郎

ここ二週間、更新できなかった。急に書く気がなくなってしまった。その原因をいろいろ考えていたのだけれど、やっぱりそもそもぼくがネット上に文章を書き始めたきっかけがなんだったのかということに思い至って勝手に納得がいった。まあ、そのことは触れないでおきましょう。

で、もうこのままやめちゃおうかなあとも思った。書いていても愚痴ばかりが最近は並ぶし、書いて公開したくなるほどの心の躍動もなくなった。

で、そんな時に読みました。
『ウェブ進化論』の梅田望夫と茂木健一郎との対談『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)。

二人は確信犯的に楽天的でポジティブでラディカルな発言を繰り返しています。それが既にして一つのメッセージなのです。

芸大で教えていても、「私は芸大生だ」と自分の肩書きに頼ってモノを言うヤツは本当にダメで、「そういえば、俺、芸大生だったんだなあ、忘れていた」(笑)というくらいの学生の方がいい。肩書きは要らない。ブログが一個あれば良い。ネットでのプレゼンスをどれだけ高めていけるかという、その戦略というのは大事ですね。(茂木)

彼らの世代には、情報の私有というものを悪だと思っている人が出てきていますよね。自分が隠匿しておくことに罪悪感を感じる。(梅田)

お金をもらっていても、仕事を楽しんでいなければプロじゃない。プロフェッショナルの定義というのは、自分のやっていることに快楽を感じる人。しかも、生物学的に単純な快楽じゃつまらない。そうではなくて、仕事とか勉強とかをいくらやっても飽きない人。(茂木)

とりあえず、もう一度ブログを書こうかなという気になった部分をば。他にもいろいろ面白いことが書いてあります。並行してボードリヤールの『不可能な交換』(紀伊國屋書店)も読んでいるのですがけっこう近似した思想がありますね。主体とシステムとの関係が持つ問題は結構身近なところにあります。会社だけでなくて、ミクシィとか。

それはとりあえず置いておいて、またいろいろ書いていこうと思います。
ああなんか、勉強したくなってきたなあ。


幾つかの引用に語らせて…

◇鷲田清一「『待つ』ということ」

打ちのめされ、矜持のかけらも潰されても、それでも待つ。これは一時のことだとして、待つ。戻ってきてくれる可能性になんの保証もないところでひたすら待つしかないとき、「わたし」は果てしなく続くようにおもわれるその時間を、いったいどのようにしてくぐり抜けるのだろう。

◇村上春樹「1973年のピンボール」

時折、幾つかの小さな感情の波が思い出したように彼の心に打ち寄せた。そんな時には鼠は目を閉じ、心をしっかりと閉ざし、波の去るのをじっと待った。夕暮れの前の僅かな薄い闇のひとときだ。波が去った後には、まるで何ひとつ起こらなかったかのように、再びいつものささやかな平穏が彼を訪れた。

◇嶽本野ばら「琥珀の中のバッハ」(『カフェー小品集』)

忘れ得ぬものが美しいのではない。忘れ去られたものだけが美しい。君が今は幸せか不幸せかなんてどうだっていい。僕にはもう、痛みでもなんでもないし僕の中の君の面影だけが必要なのです。〈中略〉実は雑草のように元気なのです。それがロマンチストの傲慢さというものです。

◇中野重治「歌のわかれ」

彼は袖を振るようにしてうつむいて急ぎながら、なんとなくこれで短歌ともお別れだという気がしてきてならなかった。短歌とのお別れということは、このさい彼には短歌的なものとのお別れということでもあった。それが何を意味するのかは彼にもわからなかった。

◇カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。