今から。
でもすぐに帰ってきます。
実家って好きじゃないから。
それはともかくとして、ミナサマよいお年を。。。
06年も当ブログに訪れていただいてありがとうございました。
今から。
でもすぐに帰ってきます。
実家って好きじゃないから。
それはともかくとして、ミナサマよいお年を。。。
06年も当ブログに訪れていただいてありがとうございました。
とはいえ主役は資料整理。もちろん会社ではない。
ネットからのスクラップ帳がだいぶたまっていたので整理。茨城の誇る都会の風の源ジャスコ様に行って2000円分くらいファイルを買ってきた。最近おもちゃ売り場に浸食されている……文具と玩具ってどうして同じ売り場になってしまうんだろう、ああいうところって。しかも隣の本屋さんにも文具が売っている始末。会計は別。(本屋って間借りしているだけなんだよね)
人のブログとか、ちゃんと形式を統一させてプリントアウトしてファイリングし直した。いいかげんなファイリングをしてしまうと後で読み返さない傾向があるんですな。やり始めるといいかげんに終わらせることの出来ないこういう仕事ってやっぱり時間がないと無理。
自分の小説の下書きも同じ作品のモノは同じファイルに集約。原稿用紙とかあった。もう手書きはしないんだろうな。気力というか体力がない。
それから雑誌の整理。「SWITCH」「EYESCREAM」「Invitation」とか(まあそれ系の文系人間が好む雑誌たちです)は残しておくけど「公募ガイド」とかパソコン雑誌とかは捨てた。雑誌って文字情報の量が少ないから写真を眺めるだけのもののほうが長持ちするんだよね。ちなみに文芸雑誌はこの範疇ではありませんが。
最後に扇風機(といいつつも用途は換気扇)とコーヒーメーカーと湯沸かし器とをキレイにした。気がつけば今日が終わってしまいそうだ…。
あと、しょうもないものも作ってみた。
仲間はずれが一つだけいます。ウルトラライツ。探してみてね。
来年は禁煙する。絶対する。
・CWの日記をちゃんと書く
・ちゃんと生きている人のブログを読み込む
(最近またいいブログを発見しているのさ)
・読みたい本は…
『資本論』第一巻読破
プロ倫
百人一首(正月だし)
建築家の本(コールハーストとか)
・小説書く
(高炉とカーテンウォール、目処がついてきた。これはやっぱり書き上げなくちゃ、というモチベーションが多少なりともあるので…)
・仕事を一生懸命やろうという気持ちを無理に奮い立たせる努力はもうやめだ。もうすこし、根本的に何かが足りてないんだよな。人生に対して。一時期よりもだいぶ後退しているし、その「一時期」というのも決して褒められたものでもない。がっついて何かやるような焦りはなくなったんだけど、静かに進めていく勇気もない。ようは何もやっていない。そういうのから、抜け出したいいいいいいって、冬休みのやりたいことリストを書いていただけなのにまたドツボにはまっちまったじゃねーか!
http://www.creatorsworld.net/syukatsu/flash/index.html
出たー! ださださフラッシュとともに販促ページが現れます。
すごいよ、いまどき日記サイト並み(か、それ以下)のフォームで更新するんですよ。更新通知も出来ないんだよ。
とりあえず、仕事とかそういうことに関係しそうなトピックはあっちに書くかもしれません。半年の契約なので、そのあとはこっちに移植しちゃおうかな。
まあ、よろしくです。
それで、昨日の続きを書こうと思っていまお風呂から出てきてこうしてパソコン(”ワーク”じゃないですがw)の前に座っているのだけれど、既にぼくは昨日の段階で一つの答えを出してしまっている。
変化とは常に既に事後評価でしかないということ。
意図された変化は茶番でしかないということ。
でも、それではやっぱりなあっ、という気持ちもないわけではない。だってやっぱり八方ふさがりになったときに人間が取る行動はそれがどんな意図に基づいていたにせよ、必然だと思いたいから。でもたぶん非難されるべきは、変化のための変化。自己目的化した変化。それだろう。
だからそう、これからの時代転職経験がない者こそ危機管理能力の欠如としてマイナス評価を食らうんだとか何とかまことしやかな「新しい」価値観に振り回されて単に転職経験がありますみたいなことを言いたいがためだけに転職先を探すのは、愚かというものだろう。
それでも大企業にいて、ぬるま湯につかっていつのまにかさび付いてトンガリを無くしてしまうのもそれはそれで問題だ。かつてキムタクは「手を抜く方が疲れる」という名言を残したけれど、そういう種類の疲れがサラリーマンの間に蔓延しているのだとしたら、”癒し”もへったくれもない。
つまりは、大事なのはポテンシャルを維持し発展させることができるかどうか、ということだ。それさえ出来ていれば、今の場所に留まろうが他の場所へステップしていこうが関係ない。世間ではそういうのを「つぶしがきく」って言うらしいけど。
その努力はきっと「単調な繰り返し」なのでしょう、受験勉強と同じく。変わらないことに耐えられる者だけが、本当の意味での変化を迎えられるのかもしれません。それはきっと、向こうからやってくる。椿事を待つ少年の目は一刻も早く捨て去り、とはいえ暑苦しい熱血漢の口角泡を飛ばす拒食症的なやる気にもげんなりしながら、クールに、頭の中に新鮮な空気を送り込みながら新しい光の中で、自分を前に進めていきたいと思います。ほんとに。
人間は変化を求める。
このことに異論を唱える人はいないだろう。けれど「変化」であればなんであれよいのか? 当然、否だ。
同じ時間に起きて同じ会社に行くという毎日。それを何千人という規模を持つ会社であれば、一つところにおのおのがおのおのの朝を迎えて同じように出社してくる。いったいこれは何なのだ? なんの魔法なのだ?
一方に貨幣所持者あるいは商品所持者がおり、他方に自分の労働力しか所持していない者がいるという状態は、自然が作り出したものではない〔……〕。それは明らかに過去の歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革の産物、社会的生産の古い諸形態の連綿たる没落の産物である。
マルクス『資本論』,筑摩書房「マルクスコレクション」,2005より
気の遠くなることがたまにある。
なぜ、こうでしかあり得ないのか。なぜ貨幣があり、労働力があり、それが単位時間あたりで売買されるなんてことがあり得るのか。なぜもっと他の形式が歴史的展開の中で生き残ることを許されていないのか?
逃げ出したい。
魔法から解かれたい。
そう思ったことは誰にでもあるはず。しかしそれは変化を求めているということなのか? まずはそうだろう。だがここで人は一つの選択を迫られることになるだろう。
fight or flight 闘争か逃走か
いずれも変化を求めることに変わりはない。しかし事態はそうそう単純ではない。
迷いは、”飛躍と逃避”がどっちつかずのときに生じる感情である。この迷いは、レストランでメニューを手に思案するのとはちがう。ここには、一目散でそこから逃げ出したいという退却の心理が隠されている。
新野哲也『頭がよくなる思想入門』,新潮選書,2000
闘争か逃走かを選択する余地を自分に残している時点でそれは既に逃走なのだ。きっと戦士にはわかっている。自分には闘争の選択肢しか残されていないのだ、と。その姿は確かに「美しい」だろう。24時間戦うつもりで茶色い小瓶をそっとカバンに忍び込ませたりするのだろう。ビューティフル・ファイター。
楽になる事にとても興味は無いと
やめないでエンターテイナー もう少し
Beautiful Fighter Grateful Slider
ここが世界の中心だと
Beautiful Fighter Wonderful Danger
右手を上げて 私に示して鬼束ちひろ「 Beautiful Fighter 」
彼らを茶化したくなる衝動をぼくはここで懸命にこらえなければならない。なぜなら同じ穴の狢にいつなるかわからないからだ。明日は我が身。いや、そうではない。資本主義の中で最も精彩を放つ彼らの価値観は、この社会の内側から見ているとやはり美しいからだ。そのことを否定しようとは思わない。「社長の告白」本にぼくが素直に感銘を受けてしまう口であることをここで告白しなければならないだろう。
閑話休題。
きっと、ぼくも含めて多くの働く人は立ち止まっている。闘争と逃走の前で。そして逃走の可能性をよくよく吟味してその非現実性にある日気がついてしまう。彼らには家族がいるだろう、いつまでも新卒であるわけではない、頼ってくる部下もいれば自分にしかできないと任された責任重大な仕事がその中に含んでいる「やりがい」みたいなものをうっかり発見したりもするだろう。そうして、そろそろと闘争に手を伸ばす。
迷っても仕方がないのだ。
迷ったところで逃げ出せるわけはないのだ。
そのことを年をとるにつれて身に染みこませていく。そして偽りの野性を持ち出して会社生活を全うするのだろう。その方が楽だから、どう考えても。この社会のかたちが求めてくるものに身をゆだねれば摩擦はなくなる。日々をするりするりとやり過ごしていくことが出来る。それが成熟というものであり、大人になるということとしてこの国では認められている。
それを茶化したいのではない、断じて。なぜならこれは、ぼく自身の問題でもあるからだ。
最初の問いに戻ろう。人間は変化を求める。しかしその変化とはいかなるものであるべきなのだろうか?
だが物事の評価というのは常に既に事後のものでしかない。それも事後の事後になると評価がひっくり返ったりすることもままある。だから今は失敗だったと思ってもほんの少しの契機で「やっぱりあれで正解だったのだ」と思えるようになる可能性がある。このことはぼくたちを勇気づけてくれると同時に失望させる。逆のパターンだってあり得るからだ。
たとえば時限装置としての大学受験――確かにぼくはそれをうまくやりおおせただろう。しかしそのことを恥じることがたまにある。なんと狭い枠組みの中で「成長=変化」を渇望していたのか、と。純粋な中に浅ましさを感じる。あるいはあれほどの素朴さをもう持ち合わせていないと言うことの証言になってしまうのか、これは。
ここでぼくはもう一度立ち止まることになる。いったい「闘争か逃走か」は有効な問いなのだろうか? と。闘争こそが逃走であり、逃走こそが闘争ではないのか? そんな見方さえ、できてくる。
この文章を書き始めたとき、もう少しポジティブな結論をぼくは期待していた。ぼくは自分自身および自分とは異なる選択をした人の両方を肯定する視点を提示したかったが、今や一緒くたになって全否定である。
このままじゃ、いけない気がする!
という自己反省から、新しい自分が生まれたことは、かつて一度もない。あったように見えても、それは後になって作られた経歴のリアリズムによる八百長だ。むしろ自己反省を僕らに押しつけてくるエラそうな自分をこそ、肥満した自分だと悟って頭を丸めるべきなのだ。霜栄『生と自己とスタイルと』,曜曜社,1994
いまいちど、この言葉をかみしめなければならないだろう。ぼくは大きな誤解をしながら生きているのかもしれない。間違った前提を大事に抱えているのかもしれない。
ねえ、変化ってそもそも主体を求めるものなのだろうか?
(つづく)
原典,古典を優先して買う
派生品,便乗本,何かに”ついての”本は極力回避する
小説に純粋娯楽は求めないという態度
amazonランキングはあてにならない
(音楽と違って書物は未読ベースでの順位付けになる)
既読ベースの書評ブログを活用
ビジネス書は購入厳禁
→想定読者に自分が入っているとは思えない
→それは一つのプライド
以上
本棚の整理をしていると捨てるべき本の多さにビックリする。
千秋の指揮を見て「ピアノを弾かなきゃー!」と走り出した”のだめ”のように。
彫刻をする森田さんの後ろ姿を見て「やるぞー!」と木材を抱えた”はぐみ”のように。
なにか書きたい。書いている。書いています。
あんまりいろんなことを考えずに、手を動かすことを無上の喜びとして。そこに目的などいらない。目的などあってはならないんだ。ただ、人が作ったモノがあるということ、それを目にする、手に触れることができるということ、それだけがきっと幸福というものなのだ。
昨日は午後六時から夜中の二時にかけて『ダンス・ダンス・ダンス』上下2巻を平らげた。小説から学ぶべきは情報という単位に還元されうるなにかではなくて、倫理観とか価値観とかそういうものなんです。この小説を読んで、なんというかやる気とかではないのだけれど、淡々と何かを進めていくことの美しさみたいなものを感じた。おかげで今日は朝からあまり鬱々とせずに(要するに余計なことをあれこれと考えしまっている状態ね)仕事をすることが出来た。
意味なんてない、ただ踊れよ、と羊男は言う。ステップを踏み、軽やかにダンスする。その物言いがどんなにハルキ的であっても、読後に残る一抹の希望のようなものは結構貴重な発見でした。この小説、以前にも読もうと思ったんだけど上巻の途中くらいで飽きちゃったんだよね。時間は小説を選びます。読みたいときにこそ、読みたい本を読むべきなのでしょう。そうしないと何も学ぶことは出来ないような期がします。教養なんてくそくらえ!
しかし今日の「あいのり」はひどかった……最近意外性だけが残って、なんにも納得できないで終わるパターンが多くないですか??