森田と修司(再論)

mixiハチクロコミュに「30代の恋愛」というトピがあって、それがとても面白い。おもにはぐと修司との関係にかかわる問題がかなり熱く議論されている。

やはり問題になるのは二人の間にセクシャルな匂いがないということ、つまりあの二人はいわゆる「つきあっている」ことになるのかという、この前ぼくも触れたことです。

はぐの修司に対する感情はたしかに愛情です。ではそれを恋愛感情以前のものと考えるのか、あるいはそれこそ肉欲をも超越した愛と考えるのか、そこに大きな解釈の溝があります。

当初は”天才肌”キャラで登場したはぐの精神生活は、恋愛に対抗し得る強度を持つに至ったのか? 確かに森田にキスをされたあと熱を出す三巻あたりではまだ成長段階にあると言わざるを得ません。では十巻では? ここがまた解釈の分かれどころ。

はぐは常に自分の創作生活という色眼鏡を通してしか異性を見ることができない、と思わせるキャラです。けれど九巻56章(この回は本当に何度読み返しても読み尽くせないものがある)で竹本に語るはぐのことばは(「大好きな人の大事な人生を変えてまで選ばなければいけない道って何?」)一度恋愛に足をツッコミかけたけれどやっぱり自分には創作しかないのだと、再決意しようとする節があります。

彼女にはあまりにも作りたいものがありすぎた。そのすべてをやってみようとしたところで人生は短い。まさにゲーテの言葉のように。はぐは恋愛に費やす時間を持ちたくても持てないのです。

それをさえ、修司はわかっているんでしょう?

それでも彼ははぐの要求に応えようとするわけでしょう?

こんなに残酷なことってありますか?

しかし

トピではもう一つ、難しい問題が提起されています。もしも事故が起こっていなかったらはぐは森田を選んでいたのだろうか? という問題。これは、なんだか考えるのさえつらく重苦しい。

はぐにとって森田という存在は創作という世界の中で確かにパートナーたり得たはずです。作品を見せ合い、切磋琢磨し合うような。それが同時に恋愛関係でもあったら、それはとてつもないハッピーエンドでしょう。

しかし事故以前からはぐは修司に対する愛情や思いやりを語っている。これと対照的なエピソードが三巻での森田とはぐとのデート(買い物だけど)です。そこで修司ははぐが森田に恋心を抱いていると悟っています。

はぐはきっと、識閾下では森田に恋していたのです。それを打ち消そうと家族的な愛を修司との間にはぐくもうとしていた。それがはぐの語りとして表出していたはず。

けれど十巻までのどこかの時点で自分の気持ちに気づいてしまい、そこから創作か(森田との)恋愛かの煩悶、葛藤があったはず。それはどこにも描かれていないけど、確かにあったはず。九巻の冒頭で思い悩むはぐの姿よりも、同じく事故後九巻の最後で「色んなモノ作った?」と帰ってきた森田に語りかけるはぐの姿の方が真実らしく映ってしまうのはぼくの森田びいきだけがなせる業なのだろうか? 本当にわからない。はぐはどこかで森田との恋愛を強制消去しているはず――と思いたい。

ここで、もしもはぐに創作も恋愛も両方取れるという選択肢が与えられていたら、という問題提起は安易すぎる。なぜならはぐにとって「恋愛」という言葉がどのような定義を持っていたのか(これは一番最初に書いたこととリンクします)によって森田・修司との位置関係はがらがら変わるからだ。どっちなんだろう。恋愛以前か、恋愛以後か。

事故によってあらためてはぐは選択を迫られたはず、森田か修司か。けれどはぐは既に創作の道を選んでしまったのです。それ以外はない、もとい、それ以外は死でしかないのです。創作の世界から見えるのはやはりモノを作っている森田であり、だからこそ森田が恋愛しようとすることに拒絶したのだし、修司は「一緒に戦ってくれる人」として必要だった。繰り返しになるが、それはあくまでも彼女が第一段階として選んだ創作の世界においての見え方です。

はぐの精神生活が恋愛に目覚めていくストーリーがもしもあるとすれば、その分岐点はもっと早くに訪れていたはず。あるいは、もっと事故が早くに起こっていればはぐは森田の言うとおりになって(歴史上、多くの女性芸術家が望めなかった)「幸せ」な生活に入っていったかもしれない。それはとても平凡で、平凡であるが故に幸福な種類の生活。多くの市民があこがれる生活。

森田は、王子ではあったが、はぐは王子が登場するような物語に最初から出てくるようなキャラクターではなかった。そこに悲劇がある。

あの事故によって提起されたのは竹本にとっては金銭的な問題、山田さんにとっては友情の問題、森田にとっては恋愛の問題、なのでしょうが、修司にとってもまた恋愛の問題だった。そしてはぐにとっては創作の問題だった。そこが切ないよなあ。

・・・・・・とまあ、本当に奥深いマンガです。
(近代)文学は少女マンガの中で生き延びています。それを実感します。


日曜日の買い物は

新しいスニーカーを買った。お店で見て一目惚れしたやつは女性用だったので残念だったが。靴べらを持っていなかったことに気づいてそれも買った。

本棚の整理をした。捨てるべき本は11冊。これは史上まれに見る少なさ。本の買い方がうまくなってきたようだ。

新風舎から販売活動の案内が送られてきた。いよいよだ。各大学の就職課や生協などに献本しようというのは前々から考えていたので、住所を調べるために大学案内を買ってきた。あとは地方新聞とか地元プレスとかね。

060924_1837

前向きに行こう。前を向いていこう。


自治とは何か

わけあって寮の自治会長兼会計をやっています。

(これは本当にわけあってなのです。たまたまぼくがなんらかの誤解の元に経理に配属されてしまったことと、前の会長が退寮したことによるのです)

で、まあいろいろ寮長さんとかと防災訓練とか部屋の点検とか話し合うわけです。

この前の集まりで、部屋に網戸が欲しいと言ったら、

「エアコンを設置したときに網戸は要らないということに決まったので会社が金を出してくれない」

とのことでした。

しかし「致死量ドーリス」ばりに「この部屋のエアコンディションは快適だ」なんて言えるような生活ならいいのですが、そのエアコンがよく壊れるのでなんとも言えません。

窓開けて寝ると必ず虫が入ってくるのがやりきれない。もともと冷房ってあんまり好きではないし。

ちきしょう。
網戸をくれー!


おまえには「キッズ・リターン」が足りない

キッズ・リターン
キッズ・リターン

シナリオ第三稿を監督Kに見せたら「おまえには『キッズ・リターン』が足りない!」と言われ、緊急映画鑑賞会が開かれた。

ぼくは初めて見たんですが、いいですね、すごいですね、この映画。シナリオ、という観点から見ていたのですが無駄なシーンが一秒もない。後の北野映画って結構情景を見せるシーンがだらだら続くことが多かったので、そっちばかり見ていたぼくには結構新鮮でした。

完璧な物語。

とでも、言ったらいいんでしょうか。すべてのシーンが伏線という意味を持つ、それもぜんぜん厚かましくなく。たぶんぼくが「物語」を悪人視していたのはその厚かましさというか、作者の「どうだ、どうだ」という声を聞きすぎていたためなのかもしれません。本当に優れた物語は波瀾万丈を仕立て上げないのです、むしろ。とても正攻法に、空気のように、作者は仕掛けてくるのです。仕掛けを仕掛けと思わせてしまったら作者の負けなのです、そこで。

太宰なんかすぐに裏をばらして「なーんちゃって」と舌を出してくるでしょ。ああいうのは映画にはならない(もちろんいきなり幕間から監督が出てきて「いや、やっぱりここはこうした方がいいな」なんて映画があっても面白いけどそれはやっぱり異端です)。そういうのを読み過ぎたのかもしれない。あるいは、小説と映画の違いを思い知ったというか。

そんなご立派なご託を並べても何にもならないんだけど、でも、やっぱりいいものを書き上げたいなあ、とにかくシナリオとして読んで面白いものを監督(笑)に持って行きたいなあ、と思います。

もっぺん挑戦してみっか!

納期は九月中……。


光文社古典新訳文庫

カラマーゾフの兄弟1
カラマーゾフの兄弟1
ドストエフスキー, 亀山 郁夫

光文社古典新訳文庫が注目を集めている。いや、ぼくだけがそう思っているだけなのかもしれないけれど。

既に「星の王子様」あらため「ちいさな王子」と「カラマーゾフの兄弟」を購入。読み進めています。この新文庫の特徴はなんと言っても古典を新訳で読める、という点にあります。なんだかもやもやとした小さな字で印刷され、もう何年も前から神様のようにあがめられている「名訳」もそれはそれでよいけれど、2000年代に生きるぼくらに近しい言葉で翻訳されたその小説は、またもう一つの価値を与えてくれるに違いない、なんて編集部の文庫跋文におもいっきり影響されまくりな感じではありますが、なんだか妙にテンションが上がっています。

個人的には装丁がいいのもうれしい。実にいいんです。岩波現代文庫並みにいい。表紙のさわり心地、背ののり付け、活字の感じ、どれをとってもいい。なんだか久しぶりに全部集めてみたい文庫と出会いました。光文社様! もっと新刊続刊でも楽しませてくれ!


シナリオを書く

この土日、ひきつづきシナリオを書き進めている。シナリオ書こうという人なら必ず読むであろう荒井一氏の青本、赤本をひもときつつ。

それにしても自分の作る物語のワンパターンさというか。よっぽどぼくは就職活動が好きなのか、それとも何かやり残しがあって追体験したがっているのか。

小説だといろいろ説明できる(この認識はもちろん自己批判されるべきですが)部分も、シナリオだとセリフと映像しか使えないのでなかなか難しいです。「活字的効果」が一切無効な場所で物語を作り上げていくということがいかに自分にとって不得手な分野であるかということをいやというほど味わっています。

そもそも僕の好きな映画ってたとえば

「tokyo.sora」
「青い車」
「ジョゼと虎と魚たち」
「リアリズムの宿」
「せかいのおわり」
「ラブドガン」
「TAKESHIS’」

と並べていけばわかるようにきわめて物語性に乏しいというか、あるいはいわゆる物語物語したものなのだけどわりとだらだらしたものが多い(上でいえば唯一「ジョゼ虎」が例外だけど、原作が小説だしなあ)。

「物語」にあんまり興味がないんです。

以上、長い言い訳でした、ろくなものが書けないことに対する。


今日はしっかり仕事した

明日いる資料を七時までがんばって仕上げました。

ちょっとした満足感。

それを大切に明日もこの調子で。

あんまり無理にテンションを上げて受け答えするのをやめようと思っているところです。

人から急かされたところでその仕事がすぐにできるわけではないので

あくまでも実直に

あくまでも「ゆっくり急いで」進んでいくことにします。