月別アーカイブ: 2006年8月

映画ハチクロを見てきました

見てきました、映画「ハチミツとクローバー」。

なかなかよかったです。映画の作り方としては、原作マンガのキャラクターと状況設定を借りてきて二時間で完結できるように物語を組み直しているという感じで、原作を知っている人も知らない人もちゃんと楽しめるようになっていました。「NANA」でマンガ原作の映画ってちょっと・・・と思った方にもおすすめです。

これもいろんなところで書かれているとは思うけど、キャスティングが絶妙でした。加瀬真山なんてそっくりですよ、櫻井翔も「好演」という言葉がぴったりでした。森田さんはちょっとあくが強すぎたような気もしますがね。

たいてい後から気がつくことなんですが、不思議なことに自分が見たいなあと思った映画って脚本家が同じだったりサウンドトラックが同じ人だったりすることがよくあります。今回もドンピシャ、スタッフロールに菅野よう子の名前が。きれいな音楽でした。

岩盤浴に行く

しょーもないことでも書いておこうと思って。

会社が終わってから同期三人で岩盤浴に行ってきました。人生初体験です。

うつぶせで五分、あおむけで十分の計十五分を三セットやるというものだったのですが、二セット目からかなりきゅうきゅうでした。もう暑いのなんのって。

しかし本当に汗の質が違います。運動した後というよりはお風呂に入った後みたいな感じで、手のひらとかつるつるです。これがうわさに聞くデトックスってやつかい。。。

昨日はプールにも行って、夏の終わりを満喫している今日この頃です。

くるり的、文学的

くるりのベストを聴いていて思うのは、彼らの音楽というのは自分が鈍感であることをびしびしと自覚してしまう繊細さみたいなものなのではないかな、ということだった。

「ばらの花」「ハイウェイ」は何度聞いても飽きない。とにかくフルカワミキのコーラスが切ない。この切なさはたぶん二十代後半にならないとわからないだろうな、なんて考えていたらそんな年齢はもうすぐそこだ。

ジンジャーエール買って飲んだ
こんな味だったけな
   ――くるり「ばらの花」

そのジンジャーエールはかつてだれと飲んだの?
その時、どんな光があなたの周りにまたたいていたの?
そのとききみはどんなバイトをしていて、どんな夢を持っていたの?

けれどそのすべてが忘れられてしまっている。
「味覚=記憶」にすら疑問を持ってしまう。
それは自分自身の存在に疑問を呈することにたやすくすり替わってしまう。「あんな味」だろうと思い続けてきたぼくが、否定されてしまうから。

そういう経験だけは、身に覚えがあるものです。

ロハスな読書

平野啓一郎も「遅読のすすめ」です。

書いてある内容に本家山村修氏の『遅読のすすめ』(新潮社,2002)を上回るものはありませんが、まあ良い意味でも悪い意味でも新書的な新書です。

それにしても以下の引用部分には一抹の寂しさを感じます、自分に引きを寄せてみてなお。

 個人的な経験からしても、中学や高校時代には、そもそもお金の余裕がなかったから、月の初めに小遣いをもらって、欲しかった本とCDとを買えば、財布はすぐにスッカラカンになって、後は翌月まで、ひたすら同じ本を読み、同じCDばかりを聴いていた。〔中略〕
 私たちは、どうやってもかつての世界には戻れない。これは事実である。

戻れないんですか……そうですよね、戻れませんよね。

それで「スロー・リーディング」や「リ・リーディング」によって、つまりは遅読や再読によってすこしでもかつての幸福な読書を取り戻そうというわけです(ちょっとまとめかたとしては曲解かも)。

ぼく自身結局のところ、再読三読したくなるような本と次に出会うまでのつなぎとして、時間つぶしとして大量の本を速読しているようなパターンに陥っていることは否めません。

それってけっこう金と時間の無駄遣いだったりします。それならば今ある本を昧読しつつ次なる良書との出会いを心待ちにする……それが理想の、本来的な意味での読書生活であるような気もします。前にも書きましたけど、本を読むテンポがぼくの場合生活のテンポに濃厚に反映してしまうので、せかせかと速読ばっかりやっているときって、生活も心ここにあらずという風になりがちです。

でも一方で読みたい本がまだまだたくさんあるというのも事実。やっと第二巻の中盤にさしかかった『座談会 昭和文学史』も読んでいると未読の名作がたくさんぼくには残されていることに気づかされるし、ランディのエッセイとか吉本ばななもまだ読んでいないのたくさんあるし三島も全集レベルで読み込んでみたいし(ああ、そんな時間があったならば!)、古典も外国文学もぜんぜん読んでいない。現代作家だって野ばら、保坂、春樹なんかは新刊が出れば必ずチェックだし。

時間があるときにはお金が無く、お金があるときには時間がない。ほんっと、ジレンマだ。学生時代の時に欲しかった本を買いあさるというのをここ一年くらいやってきたんだけど(『日本近代文学大事典』全六巻とか『座談会 昭和文学史』全六巻とか野ばら,魚喃キリコの単行本を全部揃えるとか)、そろそろ一段落。買えるときにとにかく買っておく、と割り切ってきたんだけどやっぱり手つかずの本を本棚に入れておくというのは精神衛生上あまりよろしくないな、という思いもある。

本の話ばっかりしてるけどCDもそう。詳細は割愛しますが。

これといって解決策があるわけではないし、あるいは解決策があったとしてもそれを守れるかどうかはまた別問題。中庸策としては同じ本を何度も速読する、とか。とりあえずこんなところで。

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私信 お洋服ありがとうごさんした!

金利について

消費者金融消費者金融と悪者にされがちですが、たとえばアコムではいま年利24%でお金を借りることができます。

一年間で24%ですよ。

一ヶ月だったら2%ですよ。

たとえば一万円借りたら200円の利子。

ん?

銀行の手数料って、高くないか?
コンビニで下ろすくらいなら、アコムに行った方が安いんじゃないか?

24%って数字を出されるとかならず24%分払わなきゃいけないんじゃないかと錯覚してしまいますよね・・・ぼくのように小説ばかり読んできた人間にとっては。

「おまえ、そんなんじゃローンも組めないぞ」

なんて言われつつ、無知なぼくに金利教育をしてくれた経理室に感謝。以上。

思っている以上に疲れている

なぜか疲れている。

新しい仕事がいろいろやってくる。いままでは自分の中で納得しておけばよかったものを、上司に報告する形にしなければならない。

そういう、切り替えがうまいこと行っていない。

あるいは新しい仕事に目を奪われて、当然やっておかなくちゃならない基本事項がおろそかになっている、というのもある。

で、帰ってきてご飯を食べたらベッドで寝てしまうんである。疲れてる、なぜか。で、今くらいに目を覚まして「あ、お風呂入んなきゃ」というわけ。

経理の仕事ってなんなんだろう?
経理の仕事っていうのは、基本がなにでどれがエクストラで、どこまでを範疇に含めていてるのか? お金がからめば全部経理の仕事なのか。

そういう事情をうまく使いこなせていない。

他部署と違って「経理だから」という名の下にいろいろな部署にテロル的に電話取材をすることができる。「あれってどーなってるの」「あれってどういう仕組みになってるの」というのを、興味本位であったとしても聞いて回れるのは(つまり相手がちゃんと回答をしてくれるという前提が成り立つ)たぶん経理という立場も影響しているのでしょう。

それはそれで勉強になるんだけど。

ただ、枠、というか、職務記述書じゃないけど、自分でできる範囲ってどこまでなんだろう? というのがよくわからないので、すごくマニアックなところまで教えてもらってこっちもそれを楽しんじゃうんだけど、その後でじゃあそれをそのまま上に渡せるのかといえばそうではないし、むしろそれじゃダメだし。

たまに、上司に報告することが仕事なんじゃねーよ! とキレそうになる。

経理が好きじゃないんだろうなー。というか、自分が属する集団を好きになれないっていうのは昔からあって、だいぶそれは損な性格だと思っています。

経理室でエクセルいじってるよりも工場とか工程室とか物流室とか外注室で担当の人とあーでもないこーでもないと打ち合わせしている方が楽しいし、むしろそれで半日くらい席をお留守にしていることもある。

それでいいと言ってくれる人もいないし、たぶん「仕事してねーでどこ行ってんだあいつは」なーんて言われてたり・・・するのかな。

いずれにせよ、自分の性格をもう少し知った上で仕事のやり方を変えていくというのも、自分にとっていい結果をもたらすに違いありません。

てか、あっ、お風呂入ってこなきゃ。

才能ないのう

かねてから書き継いでいた私小説を書き終わる。
私小説なので公開しません。ていうか、私小説じゃねえよ、ノンフィクションだよ。
あれだね、こういうのをなんとかって言うんだよね。まあ、たまにはいいでしょう。

今は「高炉とカーテンウォール」の続きをまた書き始めています。昨日今日は、けっこう小説を書くということに時間を費やしています。

本当に、書いていなかった。

焦ってきた。
あるいは罪悪感を感じる、人生を無駄に過ごしていることについて。六時間も寝て、だらだら仕事して、せかせか本を読んで、ちまちまと小説を書いて、っていう生活がいいかげんいやだ。

ああ、いやだ。いやだいやだいやだいやだ!

焦ってきたんですよ、もう24歳ですよ、ぼくも。

焦って書くのはよくないんだけど。

ていうか、動機としてだいぶ不純なんだけどさ。つらいのは仕方がないし、特別、才能があるというわけでもないし。こうとしか書けないんだからこうとしか書けないんじゃーっ、と開き直るまでには至っていない。

早いところ開き直りたい。
楽になりたい。
俺の人生こんなもんですよ、でもこんなもんなりに努力しているんですよ、なんて言ってみたい。

あきらめきれてないんだよなー、いろいろなことに対して、いろいろなことに関して。あきらめられたら、楽になれるんだろうに、もっと明るい小説も書けるんだろうに。

小説、なんて言葉を出すのも恥ずかしい。小説について語るなんてことがもう、恥ずかしい。

↑あっ、こんなこと言っちゃってますよ! とても文学部を胸張って卒業したやつの言うこととは思えないね。いったいあのころの純粋さはどこに行っちゃったんだろうね。

ほんとにさあ。。。

自費出版なんて、なんの意味があるんだろう。。。

お盆休みは…

今日まで三連休でした。

金曜日は室の人と飲み会→虫取り→海で花火→二次会、というとんでもなく茨城的なイベントをこなす。木にカブトムシがとまっているのを生まれて初めて見ました。花火も楽しゅうございました。

土曜日は本でも買おうと東京に行ったものの大雨に降られ&帰省ラッシュ@東京stationでくさくさしてさっさと日帰り。買ったのはチェーホフ『チェーホフ・ユモレスカ』,ダニエル・ペナック『奔放な読書』,デイヴィッド・ロッヂ『小説の技巧』。最近は新宿渋谷まで行かず東京の八重洲ブックセンターを愛用。同じ東京駅でもオアゾの本屋は通路が狭くてキライ。

日曜日は部屋の模様替え。寮長が勝手に付けた重たい防火カーテンをはずしてレースのカーテンを付けた。iBookでiTunes動かしながらネットするとすぐにファンが回り出すので音楽をパソコンで聴くのをよすことにした。それからDVDで『春の雪』再見。

今日は銀行とか郵便局関係を済ませるとどっぷり読書三昧。いまはまっているのは井上ひさし・小森陽一編著『座談会昭和文学史』全六巻。座談会形式なので平易な語り口で昭和文学を一望できます。

今週一週間ぶち抜きで休みの同期もおりますが、ぼくは明日から会社。一方でこの三連休も出社しているやつもいたりします。まったく会社ってところは。。。

「たこつぼ」からの再生案について

最近どうもいけないのは、自分がこうと決めたことに対してぜんぜん忠実になっていないということ。きわめて受動的に日々を過ごしているということ。”あいのり”からタカノが消えたのがごくごく最近の出来事だと思っていたのに、去年の今頃の話であることに愕然となって、なんだかこうして知らず知らずのうちに年をとっていくということがどうしようもなく不安になってきている。

そう考えてしまうのはきっと、転職ランキングには必ず顔をのぞかせる某社の中途採用に、たとえ冗談で応募してみたとはいえ書類選考で落とされたということも影響しているのかもしれない。

職場に新人が入ってきて、彼らに自分の知っているごくごくわずかな知識でも分け与えてやることに喜びを見いだしていることも影響しているのかもしれない。

あるいは、鹿島臨海工業地域がいかに困難に次ぐ困難の上にできあがったのかという歴史を、例の潮来の図書館で鹿島開発史やら鹿嶋町史やらをひもとくことで知ってしまったことも影響しているのかもしれない。

いずれにせよ、ぼくは非常にいま日常生活の行き詰まりを感じている。息づまっている、と言った方が正確かもしれない。

平日、フル操業の頭がクールダウンして元に戻ってくるのがだいたいこの日曜日の朝。それでも月曜日の朝はもうすぐそこにいて、ぼくに襲いかかろうとしてくる。日が落ちるのが、とてもじゃないけど耐えられないときだってある。

それは仕事がいやでいやでどうしようもないとか、そういうことではないのだと思うようになった。実際そうなのだ、別段辞めたいと思うほどの不満は今のところない。世間一般のいわゆる”仕事”に比べれば公務員的だし、変な言い方だけど室の全社的なポジショニングはぼくの性に合っていると思う。ここでだめだったら他のどこに行ってもだめだろう、というのがぼくの持論である。

それでも、いやだからこそ生活への不満とか自分への不満とか、そういう感情的な部分が平板になってきているのだと思う。心動かされる物語に触れていないせいかもしれない。いや、根はもっと浅いところにあるだろう。

そこで生活の改善案を考えてみるのである。

・たばこをやめる(既に灰皿とライターを廃棄)
・ヨガを再開
・小説のプロットを量産してみる
・自分の持っているモノ(環境とかも)に目を向ける
・会計とか簿記の勉強をする

とか、まあ、非常に妥当なラインではあるのだが。

でもなにか変えなくちゃならないという必死さはある。いまのままでは後悔するんだと思う。具体的になにがどうしたと言えない(=不可能性ではなくて能力の無さ)のが自分でもいやなのだけれど。

くだくだしくなりそうなのでこの辺で。