月別アーカイブ: 2005年12月

加湿器を買うと窓がくもってカーテンいらず

買いました、ボーナスも出たのでイオンも出ちゃうちょっといいやつを。イオンってなんなのかよく知りませんが。
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ただし、この部屋の重量の大半を占めるであろう書物にはあまりいいとは言えません。やっぱり書庫用にもう一部屋ほすぃ。

BS2で韓国ドラマ『美しき日々』のコンサートが流れています。懐かしい……このドラマもよく見ていました、mixiではおもわず「室長」コミュニティに入ってしまうくらい。確か、日本人のグループが作った曲が使われて逆輸入的にヒットしたBGMがありましたね。アコギがきれいなやつです。ぼくも好きです、あれは。

いい時間です。
そろそろまたウェンディーズで『ダンス・ダンス・ダンス』をたしなむ時間です。

今日は多少、小説も書いています。前から順番に書くのをやめました。気分のむらが激しいので書きたいときに書きたい場面を書くことにしました。あとでちゃんとつなぎ合わせます。よしもとばななさんも同じような書き方をしていたと思います(最近書き下ろしの小説で復活しました? 読みたいな)。

キーボードのカバーをはずしたらなんだか筆が進むなあ。不思議。

方寸の想い~ボーナスなんかいらねえよ、なんちゃって。

あいかわらず休みの日は本ばかり読んでいる。最近はちょっと遠くにあるウェンディーズまで車で行って一時間くらい文庫本に没頭する。マクドナルドもあるのだけれど子供連れが多いしなんと言っても寮から近すぎる。車で十分というのは意外にも結構な距離で、そしてまた店内は(おそらくは)東京と変わらない洋楽の有線がかかっているから少しだけ鹿嶋に居ながらにして渋谷の一角にいるような錯覚を覚える。

北関東の景色というのは本当にどこでも似たり寄ったりで、大型電気店と大型ホームセンターと大型パチンコ屋ととにかく広大な駐車場。いやになるくらい廣い空。特にここは海は近いのだけれど山がないから季節感があまりない。とにかく人工的な街だ。なにせ三十年前に高炉が出来たことによって生まれた街だ。たとえばここには三十年より長い歴史を持つものは少ない(ぼくが知らないだけなのかもしれないけれど)。

卒業式の日に教官が言っていた「大学というのはあまりにも特殊な場所」という言葉を今になって身に染みて感じる。学生に戻りたいとたまに思うとき、それは勉強をしなおしたいということではなくて、単にあまりにも多すぎる自由な時間のなかにまた戻りたいということと同義であることが常だ。でもそれは残念ながら一度外に出てみなければわからない。もしあなたが今大学生なら、たっぷりと時間を無駄にしてそして卒業してから後悔して欲しい。そうすることでしか時間の大切さを信じることは出来ない。

スピード社会という。そんなもん関係ないと思っていた。でも自分の自由になる時間の少なさに驚く。早く、急いで、自分のやりたいことをやらなきゃ終わってしまう。三島由紀夫は大蔵省に入ってから九ヶ月で辞職し小説家に転身した。比較の対象にはならずとも、自分の出遅れに焦る。原稿をダメ元で出版社に送ったりしている。返答はない。その割に書いていない。なにがしたいのか、なにになりたいのか、だんだんわからなくなってくる。それまでの生活パターンを崩したくないだけに本に依存しているような気もする。正直、読み過ぎだよあんた、と言いたくなる瞬間がある。世界中の本を読み切れる訳じゃないのに、あとからあとから買わないと気が済まない。活字を追っているときだけ、現実から目を背けていられる、その安堵感。どうすんのよ、これから、本当に。

新聞の投書に図書館員の給料が少なくてやっていけないという内容のものがあった。けれど五時に帰れて書物の近くで働くことが出来て10万円ならぼくはうらやましいと思ってしまう。でも、同時に電気代も水道代もかからない寮に住んでいる自分の生活も十二分に「うらやましがられる」要素を持っていることも忘れてはいけないと思う。

この四メートル四方の空間からおまえはなにを生み出すんだ。
創作こそぼくにとって価値観のすべてだ。

…と、思いたい。

ベンチャー三様

相次いで、ベンチャー社長の本を読みました。

これは非常に誠実な本です。単なる成功譚ではなくてちゃんと暗部も描かれているためすごく人間味があります。安心します、同じ人間がそこにいて働いているんだ、という気がして。お金が欲しいとか有名になりたいとかいうことよりも大事なものを持っていることが伝わってきます。

次、テイクアンドギブニーズの野尻佳孝。

ダメでした、こういうのは。完膚無きまでにサクセスストーリーに仕立て上げられています。作者は主人公です。スポ根です。無理です、ぼくには。

で、ホリエモンです。

これは、とにかく爽快です。「意味のないことはしない」というの哲学がびんびんに伝わってきます。株の勉強にもなるしこの人のやろうとしていることも明記されていて、メディアに汚染されたイメージを払拭してくれます。

さて、しゃもぢはどうすっかな。

カレンダー

外注の同期が取引先の某化学会社からカレンダーをもらっていました。びっくりしたことに、毎月ヌード写真です。社名のロゴ入りです。なえます。ていうか、マジで終わっています、この会社。社名は秘匿しますが。

カレンダーといえば買ってしまいました。のだめカンタービレの卓上カレンダー。



プリごろたのしおりつきです。マニアにはたまりません…。

今日は根回しの大切さを感じた一日でしたとさ。
あー、あと一日。

NHK杯

村主さんの「復活」にも涙が出てしまったのですが、なんですか、あのパジャマで踊っていた男の子は。すごいな。織田信長の子孫とかアナウンサーが言っていましたが。すごいな。

文学=?

柄谷行人『近代文学の終り』を読みました。

岩波から柄谷行人集も出て、卒論もこの人の著作に触発された部分が多かったのでなかなか楽しむことができました。浅田彰みたいに難しすぎないんですよね。ぼくにとっては努力して読めばわかるというちょうどいいレベルの知的刺激を与えてくれる著者です。

それにしても柄谷節! やっぱりいいねえ。

長い受験競争を経てやっといい会社に入ったというのに、あっさりやめてしまう人が多い。そして、「フリーター」になる。彼らは小説を書くかもしれない。しかし、そこには、立身出世コースから脱落した、あるいは排除されたことから生まれるような、近代文学の内面性、ルサンチマンはありません。そして、実は、私は、それは悪くない傾向だと思います。さらにいえば、そういう人たちは文学などやらなくても結構です。もっと違う生き方を現実に作り出してもらいたい。

「大きな物語」が崩壊した今はもうなにをやっても相対的な価値しか持ちませんから、もう?外や漱石と状況として同じ人生を歩んだとしても同じ問題意識を持つことはできないんでしょうね。それじゃ一体どこに現代文学の価値が現出するのか。柄谷さんはもう「文学と縁を切ってしまった」と言ってしまうんですが、それは優れて文学を目的論化した文脈から超越した態度なのだと思います。本当に文学的姿勢を貫くなら現代という時代においては文学なんかに手を出さないというものすごい逆説! それがこの本には蕩々と述べられています。なんだか表紙の写真のように寒々とした感覚になってくる本です。

まあでも、考えてみればそうですよね。「文学=小説」っていうのは思いこみで「文学=マンガ,絵画,市民運動,政治…」という可能性だって充分考えられるわけだ。自らの文学をなにによって表象するのか、ってことか。小説にばかりこだわってないでたまには違うこともしてみようか、という気にもなってきます。