月別アーカイブ: 2005年11月

ええっ!? 差異の差異?

予算の勉強のため、差異の差異を分析しております。っていうか、もうわけわかりません。2003年の実績とか、ぼくその時大学生でしたから……知らねえよ(笑) それなりにエクセルをいじくって表を作るのはおもしろいんですけどね。

時間が永遠にあればね、ゆっくりじっくりできるんですが、会社での苦労の大半はたぶん締め切りというものにあると思います。締め切りがあるから能力というものが問われるんだと思います。時間をかければ誰だってできるんですよ、きっと。

自分で100点と思っても「それはやりすぎ」だったり「そんなの誰だってできる」だったり、結局は被報告者(こんな日本語はない? でもわかるよね)の判断がすべてで、そしてかならずしもそれは純客観的ではないようです。

そういうのを楽しめるかどうかだな!

もう少し仕事があったんだけど帰ってきた。やっぱり一人で本を読んだり考えにふける時間が一日の中にないとやっていけないから。そういうのは睡眠時間より大事です。

Macのキーボードがおまえの鍵盤だ

同語反復?

いえいえ、小説だって練習しなければ書けないよということの喩えです。
練習しなくちゃなー、ってつぶやいている自分に酔ってみたいというもくろみ。効果の持続は未知数。

来月、某大手自動車会社の工場に見学に行くみたいです。
いよいよ予算作りというやつも始まりそうです。
業務論文もそろそろ題名を決めなくちゃなりません。

やることがいっぱいの時こそ焦らずじっくり確実にをテーマにしたいです。焦ってやったって間違えるものは間違えちゃうもんね。大事なのは密度。

アマゾン購入の本は続々と届いてきますが、その時その時で読みたいものを読み散らかしている感じです。そのほうが気が楽でいいや。べつに最後まで読まなくちゃならないわけでもないし。自分というフィルターを通過させて、残ったものを大事にする。それでいいような気がする。

峠を越える

今朝は吐き気で目が覚めてしまいました。どうなってんだ、オレは……だいじょうぶなのか。でも会社に行ってぐすぐずながらも仕事を片付けているうちに昨日の夜の憂鬱は消えました。この繰り返しなんだろうな。たぶん底の底まで行ききったのが今朝だったのでしょう。体は全部知っている。

がんばろうと思います。地味に生きる努力をしていこうと思います。天才であるわけでもなく才能があるわけでもないのだから。ぼくの悪い癖です。自己英雄化することでついつい現実から目をそらしてしまう。きっと「物語」を嫌っていたのはそういうことなのでしょう。でもそれは大きな誤解で、本当の意味で「物語」化をするならば、どうしようもなく惨めな自分の姿を直視しなければならないのかもしれません。サクセスストーリーのスタート地点に立つこと。どこまで行っても失敗続きでも、明日は成功すると信じること。その姿は滑稽か、真摯か。

すごくいま、原始的な思いです。変な言い方だけど。

書け、とりあえず書け

「オチをつける能力がないばかりに『オチが無くたって小説だ、いやむしろオチをあえてつけない小説こそが本物だ』と勝手に思いこんでいた節があります。」って、一つ前のエントリーで書いたんだけど、あとでどうしてもここだけ気になってしまいもう一度書きます。

自分の能力のなさを棚に上げてぬけぬけと「おまえの方が間違っているんだよ」と言ってしまう欺瞞。そういう種類の自己肯定を、小説に限らずやってしまっているような気がしてならない。

具体的に、あれがそうだと言えないのがくやしいのだけれど。

でもそうしないと立っていられない、という事情もある。だってあまりにも自分は、自分のやろうとしていることは、やってきたことは人と違う。もちろんこういう言辞に特有の自己浪漫化は自覚しているけれど、今はとりあえずかっこに入れておいてください。

怖い。

このままでいることがすごく怖いし、でもそれ以上にこのままでいられなくなることを怖がっている。

それじゃ、どうするのよ?

どうしようもないよ。
いかんともしがたいよ。

ただあんまり執着が無くて、生きることに。これはこのサイトを立ち上げた当時にも抱えていて、そのことをちょろっと書いて「甘いな」と思って消しちゃったこともある。

生きることに執着がない。でも実は死ぬことにも執着がない。要は、自殺しようと思うほど激しい波があるわけでもなければ「主体的に」生きてみようと思えるほどの情熱もない。だれかのために、なにかのために。そういうのももちろん無い。

答えの出る問題設定ではないよな。

最近よく更新するのは、ちゃんと言語化しておきたかったから。そういうもやもやを。言葉にするっていうのは対象との距離を作り出すっていうことだから。

冷静になりたい。嘘だ、情熱的でありたい。ほら、最初に戻っている。何かに熱くなれない自分を肯定するために「まあ、クールであることも大切だから」なーんて。

がんばっている人のブログ日記でも読んだら自分もがんばれるかなと思って100枚くらい印刷して読んでいたんだけど、むしろ強調されるのは自分とその人との距離。いや、それはいいんだ。そのあとが問題だ。

断片的でも読みにくくても、とりあえずこのままの形でアップしておきます。また後日書く材料になるかもしれませんので。日曜の深夜、という構造的な問題もあるのかもしれないしね。でももう寝ます。眠りにつくまでの時間が長いとどこまでも鬱々としてしまうので起きていただけです。

袋田の滝センチメンタル

ダメでした……また某新人賞、箸にも棒にも引っかからず。箸くらいには引っかかるんじゃないかとちょっぴり期待していただけにへこみます。

そんなわけで昨日は気散じに同期四人で袋田の滝を見に、水戸を越え大子まで行ってきました。

朝九時出発のはずが四人中三人起きておらず、なんだかんだで十時半出発。ひたすら北上です。途中、将来すっごい美人になるんじゃないかと思われる小学生がでかい家の庭で遊んでいるのにほれぼれしたり(これでお持ち帰りなんかしたら源氏物語ですよ)、二車線なのにほぼ九割の車が左側を走っていてなにかワナがあるんじゃないかとドキドキしながら右側車線をぶっ飛ばしたりしつつ、片道三時間くらいで到着。一人で音楽を聴きながら行くにはつらい距離です。

現地はふつうに観光地でした。おみやげ物屋があり旅館があり団体観光の群れがあり。間違えて車両進入禁止地帯までつっこんでしまい、道幅がくそ狭い上に観光客が容赦なく横断しまくるところをなんとかUターンして駐車場に止め、いよいよ滝へ!

観瀑台へのトンネルを抜けるとそこは……

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袋田の滝!

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俺たちはまた会うぜ……

なんでも「花もみち経緯にして山姫の錦織出す袋田の瀧」という西行が詠んだ有名な歌があって、確かに紅葉もきれいでした。来週あたりが一番見頃かもしれません。

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西行はよほどこの滝を気に入ったらしく、春夏秋冬の四度見に来なければこの滝の良さはわからないと言ったとか言わなかったとか。冬は滝が凍ってしまうようです。またそのころに行ってみたいですね。

と、とりあえず気晴らしにはなったんですがどうしよう小説。どうしようもこうしようもないんですが、長いのをへとへとになるまで書いて応募→落選→落ち込む、というデフレスパイラルはちょっと効率が良くないと、今の自分の力をかんがみて思います。

ハードルを少し下げてみる。

短いのを書く。
短編で力をつける。
短編なら「おしまい」をつけなくちゃいけないからだらだらと書かずにすむし、一編一編ができあがっていく達成感も少しは味わえる。

オチをつける能力がないばかりに「オチが無くたって小説だ、いやむしろオチをあえてつけない小説こそが本物だ」と勝手に思いこんでいた節があります。素人がやったって「あえて」のレベルには達することなんてできないよ。

まずはグレマスのモデルでも何でもいいから、お話を作り上げること。そこからもういちど始めましょう。

たまにゃあ読書日記

山村修『遅読のすすめ』は大学時代図書館でよく読んだ本でした。レポートの作成のために小説を読んでいるとどうしても情報処理的な読書(学術書ならともかく小説ですよ!)になってしまい、そういうのに嫌気がさしたときよくひもといていたものです。

この本の中に高野文子『黄色い本』が紹介されています。


主人公の女の子が『チボー家の人々』という長編小説を読み終えるまでの心象風景とでも言ったらいいのでしょうか。彼女は主人公ジャック・チボーと家で、学校で、登下校でさまざまに対話します。革命への意志。その一方で就職をしなければならないという現実。

読了はすなわちチボーとのお別れです。そして主人公もまた新しい環境へ旅立たなければなりません。単に一つの長編小説を読み終わるというだけでなく、チボー的世界からのお別れでもあります。

――極東の人、どちらへ?
――仕事に…仕事につかなくてはなりません。〔中略〕革命とはやや離れますが、気持ちは持ち続けます。
――成功をいのるぜ、若いの!

これは泣けます。

そういえば自分も中学高校時代『ジャンクリストフ』や『レ・ミゼラブル』『カラマーゾフの兄弟』なんて長編小説に没頭していた時期がありました。最後の巻の残りページが少なくなってきた時の感覚って確かに忘れられないものがあります。読了した瞬間のなんとも言えない寂しい気持ち。マリユスよかったね、アリョーシャがんばったねと登場人物に完全に同一化した読書というのも一つの愉楽ではありました。

「書物」というものへの愛情もはしばしに見られる作品です。本が好きな人はオススメです。

そういえば魚喃キリコ『南瓜とマヨネーズ』の巻末対談で魚喃が高野文子を思わせるという指摘があり、またこの人の作品『strawberry shortcakes』も『tokyo.sora』と感じが似ているという話も出てきていて、別にそんなつながりを最初から知っていたわけではないのに自分の好きないろいろな本や映画ってやっぱり互いにどこか似ていてどこかでリンクしているということにあらためて気がついた。

好きなんだよね、ああいう表面上淡泊なんだけど内側に熱いものを秘めている系のお話って。

実は今日は休みなんですわ

なぜなら文化の日が休みじゃなかったから。工場は独自のカレンダーで休日が定められているのでたまにこういうことがあります。

室のゴルフにつきあわされるものあり、台湾に旅行に行くものあり、ぼくのようにやっぱり会社に行く日よりもぜんぜん早く起きてうきうきしながらなにしよーかなーといいながら結局パソコンを立ち上げてしまうものもあり……。

あ、いま目覚ましが鳴りました。

「まだ」と「もう」

よくある話ではあるんだけどさ、「もう入社半年もしたんだから」という価値判断と「まだ一年目なんだから」というそれとに板挟みになって、結局人間って都合のいい方にばかり解釈してしまう生き物だから自分の力を過信してしまい、自分のこしらえた誤った情報をいろんなところへ垂れ流してしまっていた。もう、何度か同じ失敗をしたんだけど、だめだ。またやってしまった。

がつーんと叱られた訳じゃないけど「おまえそれじゃダメだよ」とたしなめられ、自分でも自分が悪いという自覚があるからずいぶん今日は勝手にしょげてました。性格もあるんだろうけど。

ベースは謙虚にいこう。四月からの成長の度合いを線グラフにしてみるなら、ここに来てその傾きは急激にゆるやかになっている気がする。それをまずいことだとまずはあえて思ってみること(持って回った言い方だけど、要は会社においてはそれが求められてしまうということだ、その人に意志にかかわらず)。

意志?

そんなものは家で留守番でもさせておけばいい。

という強がり。

あゝ無常

入社以来関わってきた方の担当が変わって仕事上のつながりがちょっと薄くなった――ということが最近重なって、ああもっといろいろ聞いておけばよかったと今更ながら感じてしまう。『働きマン』にもそういうの、ありましたよね。

この前アップしたエッセイにも書きましたけど、本当に「無常」を近頃よく感じます。日々が単調だと感じている者の目は死んでいる。決して変わらないものなんてない。

秋きぬと目にはさやかに見えねども――

それと同じこと。いちいち風の音に驚く必要はないけれど、うっかりしていると変化に足をすくわれるはずだ。

だけどさ、だからこそぼくたちは安定を求めてしまうんじゃないの? この手にとどめておきたい何かを。たとえば思い出を。ときどきよぎる「やっぱり大学に戻って勉強し直そうかな」という思いが「大学時代にもどってまた同じ時間を過ごしたいな」という不可能性と等値であることを、ぼくはいやというほど自覚している。まあ永劫回帰的にはそれもまた肯定されるのかもしれないけれど。

と、このままいくと「変化するということ自体が安定的な事実なんだ」とかわけのわからない方向へ思考が偏っていきそうなのでこの辺にしてもう寝ます。

KAZAMAX、コメントありがちょね。

ああ、また煮詰まってくる。

時間があれば金はなく、金があれば時間がない。
読みたい本が次々と届けられ、積まれていく。読むスピードが追いつけない。
その瞬間に読みたい本を読めばいいとは思うのだけれど、およそ買ってしまったなら読まなければならないという義務感にとらわれる。そういう状態で読んでも結局はとばし読み。右から左へ通過するだけ。それじゃ読んだことにならない。

べつに読書の話をしているのではなくて、時間の話をしている。
一刻一秒たりとも無駄にできない、してはならない、という強迫観念。
それが、社会人になってから日に日に強くなってきている。
目的意識というものから解放されて過ごした大学時代は、だからこそ得られるものもたくさんあった。むしろぼくはそういう人間なのかもしれない。

けれども「余暇の過ごし方」というテーゼの裏に張り付いている「仕事⇔遊び」という二元論。「有意義に」という目的意識がでっち上げられ、「リフレッシュ」という大義名分が月曜日の足を重くする。

平日は遅刻ぎりぎりまで布団の中にいる。可能な限り現実とのつながりを絶っていたいという抵抗。

ところが休日は夜の二時三時まで酒を飲み、七時八時に起きて洗車に買い物。寝てる時間なんてもったいない、休みなんだから何かしなきゃ、休みなんだから遊ばなきゃ。もったいない。

目的意識。

それはかつてぼくがもっとも憎んだもの。

でもそれは「生きていく=食べていく」ことが見えていなかった故の誤りだったのか。食べるために働かなければならない。そこに人間としての、生活者としての根本命題があるのならば我々は結局目的意識というものから真に解放されることはないのではないか。そんな気さえしてくる。

生活者、ねえ……。

こういうことを考えるとき、参考になる作家が見あたりません。