「オチをつける能力がないばかりに『オチが無くたって小説だ、いやむしろオチをあえてつけない小説こそが本物だ』と勝手に思いこんでいた節があります。」って、一つ前のエントリーで書いたんだけど、あとでどうしてもここだけ気になってしまいもう一度書きます。
自分の能力のなさを棚に上げてぬけぬけと「おまえの方が間違っているんだよ」と言ってしまう欺瞞。そういう種類の自己肯定を、小説に限らずやってしまっているような気がしてならない。
具体的に、あれがそうだと言えないのがくやしいのだけれど。
でもそうしないと立っていられない、という事情もある。だってあまりにも自分は、自分のやろうとしていることは、やってきたことは人と違う。もちろんこういう言辞に特有の自己浪漫化は自覚しているけれど、今はとりあえずかっこに入れておいてください。
怖い。
このままでいることがすごく怖いし、でもそれ以上にこのままでいられなくなることを怖がっている。
それじゃ、どうするのよ?
どうしようもないよ。
いかんともしがたいよ。
ただあんまり執着が無くて、生きることに。これはこのサイトを立ち上げた当時にも抱えていて、そのことをちょろっと書いて「甘いな」と思って消しちゃったこともある。
生きることに執着がない。でも実は死ぬことにも執着がない。要は、自殺しようと思うほど激しい波があるわけでもなければ「主体的に」生きてみようと思えるほどの情熱もない。だれかのために、なにかのために。そういうのももちろん無い。
答えの出る問題設定ではないよな。
最近よく更新するのは、ちゃんと言語化しておきたかったから。そういうもやもやを。言葉にするっていうのは対象との距離を作り出すっていうことだから。
冷静になりたい。嘘だ、情熱的でありたい。ほら、最初に戻っている。何かに熱くなれない自分を肯定するために「まあ、クールであることも大切だから」なーんて。
がんばっている人のブログ日記でも読んだら自分もがんばれるかなと思って100枚くらい印刷して読んでいたんだけど、むしろ強調されるのは自分とその人との距離。いや、それはいいんだ。そのあとが問題だ。
断片的でも読みにくくても、とりあえずこのままの形でアップしておきます。また後日書く材料になるかもしれませんので。日曜の深夜、という構造的な問題もあるのかもしれないしね。でももう寝ます。眠りにつくまでの時間が長いとどこまでも鬱々としてしまうので起きていただけです。