映画『春の雪』を見る

見てきました。公開初日にもかかわらずガラガラでした。なんてこった、三島先生の映画化だというのに、もっと熱くなれよ。

ネタバレになるのであんまり詳しいことは書きませんが、まあ予想通りの映画ですね。「純愛」と思っていただいていいかもしれません。でもおそらく映像の美しさを捨象してしまったら単にさかりのついたなんとやら…とも見られなくもないところが難点。

ただ感心したのは、原作では次巻以降の大きなテーマである輪廻転生の予告ともなるべき次の台詞の解釈です。

「俺たちはきっと会う、滝の下で」

映画のラストでもちゃんと松枝は言うんです、汽車の中で。ところが原作にはないある小道具を使うことで「俺たち」が松枝と本多ではなく松枝と聡子の意味にすり替わってしまっています。次の物語への橋渡しともなるべき台詞が映画では「純愛物語」としての完結を意味してしまっている――これにはなかなかうならせられましたね。そうくるか、行定監督。

あとはおおむね原作に忠実な作りになっています。三島の小説を読みながら思い描いていた感じがけっこうそのままの形でスクリーンに出てくるのは原作が映像的だからということなのかわかりませんが、そこは満足でした。

それにしてもタイの王子はだいぶ役割がなかったような……指輪をなくすエピソードも無かったですしね。原作から恋愛的な要素を抽出した物語だと思えばいいのかな(うん、まあそれならやっぱり「予想通りの映画」という最初の結論に戻ります)。そのあたりはもう一度原作を読み直して比較してみようと思っています、……そっか飯沼も出てこなかった。いろいろまだつっこまなければならないところが多いようで。


歌を忘れたカナリヤは…

塩田昭彦監督『カナリア』を見ました。
カナリア

同監督の『害虫』は好きで何度か見ていたので、『カナリア』もまた同じシリアス路線なのかな(ちなみに『黄泉返り』も塩田監督であることにぜんぜん気づいておりませんでした)と期待していたら期待通り。

『害虫』は割と解釈に自由を持たせてくれる映画だったのでいろいろと自分に引き寄せたりしながら書く素材としてはおもしろかったのですが、『カナリア』はけっこうストレートです。メッセージがもう、びんびんに伝わってきます。あんなに大事なこと、登場人物の口を借りて説明しちゃっていいのかというくらい。

ただ、むしろぼくは教義とか憎しみとか悲しみとか、そういう抽象的なものだけで人間って生きられない、のかな? という風に見えて仕方がなかった。

万引きや売春が「生きていく=食べていく」という意味で現実を象徴する一方で自分を捨てた祖父に対する憎しみだけで東京まで歩いていこうとする主人公の男の子はやっぱりどこかズレてしまっている、現実から。

もちろんそのことは映画が進むにつれて自覚されていって、もう一人の主人公の女の子が二回目の売春をするとき、あの男の子が追っかけていって車のガラスを割るまでの葛藤というのはたぶんすさまじいものがあったのだと思う。ただ、これは本来はすごく大人の問題なんじゃないか、どうやって「生きていく=食べていく」のか、なんていうのは、とも思う。

その意味でやっぱりこの映画に登場する子供たちはいろいろなものを先に見すぎてしまっていて、先に背負わされすぎてしまっていて、大人だってわからない問題に頭をつっこんでいる姿が見るものの目をとらえて離さないのかもしれない。

映画のラストシーンの「生きていく」は「食べていく」という意味ではないんでしょうね。じゃあ何なのか。

「罪を許す」
「弱いものを守る」
「死なないでいる」

いろいろあるんでしょうけど、まああとは映画を見てください。
公式はこちら


原稿用紙と炭酸水

長塚圭史さんのブログを見ていたらビールの代わりにペリエを飲む(ほんとはペリエじゃないんだけど)話が出てきていたので、長塚ファンとしては早速まねしてみようと思ってジャスコに行って買ってきた。

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ついでに新しい小説は原稿用紙で書くことにした。これは単純に身体的理由から。昼間ずーっとエクセルとにらめっこのうえ部屋に戻ってきてまで液晶画面を見るのがけっこうつらいのです。

パソコンってだらだら書き流すことが出来るのでエッセイとか思考実験には向いているんですが小説には向かないような気がする。他で書いたものを活字化するという点においてのみ便利な機械、と定義し直した方がよいのかも。あくまでも活字工代わりであり印刷機。

唐突に、西脇順三郎の詩集を読む。
巻末の年譜を眺めていたらくらくらしてきた。卒論をラテン語で執筆? 大正のご時世にフランス・スイスへ旅行? 英語でもフランス語でも詩が書ける?
ああ、そんな才能がほしいなあ……。


サンデー・フィロソフィー

平和な青空だなー。
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本棚をまた買ってきました。

前と同じやつです。部屋は四面しか壁がないのでいよいよレイアウトに限界が来ています。もう一部屋借りて書庫にでもしたいな。

寮にもなんか図書コーナーみたいのがあって、鉄関係の本とか古い岩波新書とかあるんですが、どうせ誰も読んでいないんですからたとえばなぜか全巻そろっている川端康成全集とか、ぼくの部屋に置いてもらった方が有効活用されると思うんですが、ダメ?

でもガラガラの棚を見ていると本をそこに埋めたくなってしまうのか無駄な本を買ってしまった……またまた自己啓発系ですよ、だんな。もうやめよう、もうやめようと思いつつ、そこにきびしーい言葉を求めてしまう。たぶん叱られたいんでしょう、会社とは違う価値観の世界で。

それはさておき、いよいよ行きづまっています。なにがって?

創作活動が!

丸山健二がとにかく書き始めたら書き上げろと言うので昔書きっぱなしになっていた小説を(実は本家にアップしていて未完になっているやつですけど)書き直し始めたんですが、もうおそまつでおそまつで直しようがない。というか、直しちゃうとあの当時持っていた稚拙ながらも稚拙さとして統一感を持っていた(難しいな、なんて言ったらいいんだろう)なにかが全部壊れてしまうような気がして、非常に苦労しています。

まずはそれをじっくりと読み返して、存分に恥を味わってください。めまいを覚えるほどひどい代物だということをしかと胸に刻んでください。そして気を取り直し、別の小説を書こうなどとゆめゆめ思わずに、その小説をどうにか小説らしくすることを考えてください。別の小説を書いても結果は同じことなのです。(丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』)

でも、もうやめ。この人のストイシズムには正直ついていけない。

新しい小説を書こう。いま、書きたいことを書こう。

そう思いました。ATOK2005もせっかく買ってきたんだし。

でもなにを書きたいんだろう。本当に自分が書きたいものって何なのだろう。

……って、ニートチックですね。姿はサラリーマンでも心はニートです。

まずとにかく立ち止まり、知性や感性などというもののうるさいおしゃべりをやめること。決意して優柔不断に陥り、教養を捨て個性を壊し、自己を限りなく希薄にすること。(霜栄他『大学デビューのための哲学』)

これから十年計画で、なんとかして、いい小説を書いてみるつもりだ。いま迄、書いて来たものは、みんなだめだ。いい気なものだったよ。てんでなっちゃいないんだ。生活が、だらしなかったんだね。ひとりで大家気取りで、徹夜なんかしてさ。(太宰治「正義と微笑」)

とまあ、いろいろと思い浮かぶ引用は他にもあるのですが、とにかく環境の変化によって自分の考えも変わってきているはずですから、このいまの自分が表現したいものを尊重する、そっちを優先することとする。その方がいいんじゃないかな。

と、なんだか題名と全然関係ないところに来てしまいました。ノスタルジーについてはまだ書き途中なので出来たらまたアップします。

そういえば体重がついに60キロ台に乗りました。人生初です。他のみんなは多忙さにやせ細っていっているというのに……ある人に言わせればプレッシャーをかけられるとやせる型と太る型があるらしいんですが、ホントですか? 後者ですか、ぼくは。毎日肉ばっかり食ってるからなー。


感覚だけが正直だ

今日はちょっと”仕事したな感”を感じることができました。水曜日あたりはなんか決められたマスにただ数字を入れるだけっていう仕事が多くてすっっごく眠かったのですが、今日はびんびんに仕事して気づけば七時過ぎという感じでした。やっぱり誰かのためになるというのが明確だとやる気が違いますね。

一ヶ月前はちんぷんかんぷんだったものを人に説明することができて、しかも「よくわかった、ありがとう」と言われた。それがすごくうれしかったのです。もちろん今日指摘したことを改善していくことこそが本当にこれからやらなきゃならないことなんですけどね。

とはいえ資料はいろんな人にデータを集めてもらってできあがったものですから(和歌山に配属になった同期にも手伝ってもらいました)もちろんここで天狗になってはだめで、あらためて仕事っていうのは一人ではできないんだということを同時に感じます。

しかしあとからあとから案件が出てきて机の上が片付きません。席替えで隣の人がいなくなったのでその空いた机にちょっとずつ浸食気味だったんですがそろそろ片付けようっと。


パソコンが壊れる

しゃもぢが来てからトラブルが多い、とあらぬ貧乏神キャラを押しつけられそうになっていたところへぼくの使っている会社のパソコンがぶっ壊れました。バグってシャットダウンしたら再起動してくれない。

パソコン担当の人やらIBMの人やらも駆けつけて、なにをどうやったのかわからないけれどとりあえず元の状態に。ハードディスクはそのままで本体のハコだけ交換してくれました。原因がわからないので「いつまた壊れるかわからないけどとりあえず使っとけ」という状態です。怖いのでCDRにバックアップもとらなきゃなりません。もちろんそれを家に持って帰ってその辺に置いておいたらしばかれます。経理のデータは施錠管理が原則です。

IBMがかな入力に耐え切れていないんだ、これを機にローマ字入力に直せ、と無理難題をふっかけられながらも思ったのは、ああやっぱりパソコンっていうのは道具にすぎないのだなあ、ということ。そしてまたそこにすごく依存してしまっているということ。それがいいか悪いかは別として。

それにしても地震多いなあ! 車に乗っていてもわかりましたからね、さっきのは。


ここまでたどりついたのは自分の力によるのではない

今週はリクルーターとしてお世話になった例のAさんを囲む会あり、仕事で本社に電話したら担当の方がやっぱりリクルーターとしてお会いした方だったり(「君はもしかして小説家のしゃもぢ君かい?」と言われた時にゃあ、なんのことかと…笑)、入社時にいろいろお世話してくれたおっちゃんらと久しぶりに会って話をするというイベントがあったりと、この会社に入ったということを振り替えさせられる機会をいろいろと持つことができました。

なんといってもぼくの哲学である今日のタイトルをもう一度確認させられました。人生のポイントポイントで出会ってきたいろんな人々に肩を押されて、まああっちゃこっちゃにぶつかって跳ね返りながら今日の自分があるのだなと。

桜井和寿氏も言っておりました。初心なんかよりも大切なのは昨日よりも今日成長したと思えることだ、と。だってそうでしょ、就活を始めた当初から入ろうと思っていた会社ではないけれどなんとなく居心地いいし、経理室に関しても同じです。

「こんど担当になりましたしゃもぢでーす」
「おお、何年目?」
「いや……、このまえ入ったばっかりで」
「あっはは、実習生か!」

「経理でしょ、大学ではなに勉強してたの?」
「えっと、日本文学です」
「……」
「……」
「えっ、冗談じゃなくて?」

なんてことを言われていたなあ、最初の頃は。

まあ、そんなこんなで半年たってしまいました。

知らない人にも平気で電話をかけられるようになりました(たまに受話器を肩で挟んで仕事人ヅラしてみたり)。
WORDを縦書き設定にして小説を書くことくらいにしかパソコンなんて使ったことがなかったけれど、EXCELでいろんな表を作って分析をできるようになりました。
一分でも長く眠っていたいと朝ご飯を食べなくなったのに五キロも太りました。
貧乏性なのか休みの日は寝ているのがもったいなくて朝はやく起きてしまいます。

あれ、ヒロシですみたいになってきた。
こんな感じでやっていきましょう、そうしましょう。

*****

文藝賞、今度は中学三年生ですか……すごいな。いろんな意味ですごいな。
そういえば、あっ、文庫になってる!
インストール

書き下ろしが併録されていますYO!


ぞっこん中島優美

GO!GO!7188のボーカル中島優美のバンド「イロハ」のアルバムがアマゾンから届きました。

イロハ

じゃない、逆だ。アルバムのタイトルが「イロハ」でバンド名は「チリヌルヲワカ」です。なんともまぎらわしい。まあ企画ものだから仕方がない。

以前にでたソロアルバム「てんのみかく」は既に愛聴盤となって久しいのですが、今回もまた中島優美ワールドが炸裂しています。歌詞カードの縦書きがとてもステキです。まあ、詳しい感想はまた追々。

それから四月に全巻購入してほっぽらかしてしていた山岸凉子『日出処の天子』をやっと読み終わりました。これは聖徳太子が実はホモだったという漫画です……というのはほんの一部をしか伝えていませんね。

この漫画、全七巻のうち四巻あたりから一気のおもしろくなるのでもし読まれる方は一巻で挫折しないでください。厩戸王子のカリスマ性が恋愛感情によってむしばまれていく様はさることながら、蘇我と物部・神道と仏教といった二項対立の狭間でゆれる主人公蘇我毛人の人物造形もすばらしいです。ある一時代、人々を夢中にさせた作品というのはやっぱり時を経てもそのおもしろさは色あせることがありませんね。

それではおやすみなさい。


ドラマ太宰治

TBSでやっていた豊川悦司扮する太宰治のドラマを見ました。

高校時代、文学青年のご多分に漏れず太宰治にかぶれていたぼくとしても結構満足できる再現ドラマでした。美智子夫人の視点からも描かれているのがなかなかよかったのかなと思います。

それにしてもいちいち出てくる作品の朗読につい声を合わせてしまいました。太宰の小説ってキャッチフレーズの宝庫なんですよね、自然と口をついて出てきてしまいました。けっこう何度も読んだからなあ。

トヨエツといえばやっぱり小説家の役をやっていた『Love Story』というドラマもかつてはまって見ていたことがあります。紫煙をくゆらせながら難しい顔をする役が似合うのは他にはなかなかいないんでしょうねえ。

いま僕の部屋の本棚に太宰がどこにいるかというと、一番下の段にひっそりと息を潜めています。やっぱりまだ読むのが怖い。まだまだあのハシカにかかる危険性はあるし、なかなか距離のとりずらい作家です。こういう内容のエントリーだと最後に「また読んでみようかな、と思います」とかなんとか月並みなことを書いてしまいがちなんだけど、それをとどまらせるものを太宰は持っています。なんなんでしょうね、一体。


水戸を開拓(第4弾)

今日は茨城県立図書館に行って参りました。水戸城の跡地に建てられていて、お堀を越えたところにでんと構えていました。

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これはよかった。ぼくは文学のことしかわかりませんけど書架をぐるぐると回ってみた感じでは大学の図書館くらいのラインナップにはなっていました。さすがに市立と県立とは違いますね。

なんとここは地下書庫が開架になっていて、下りていくとなんとも懐かしい匂い。茶色くなったふるーい本が放つあの独特の薫香ですよ。卒論に明け暮れたぼくの大学四年時を象徴するんですな、あいつは。そんなわけでろくすっぽ本は読みませんでしたが本を書架から出したりしまったりうろうろして楽しみました。

あとこの図書館にはホールが併設されていて、というか図書館の中に組み込まれていて、なんにも催しがない時は中に入ってシートに座りながら本を読むなんてこともできます。高校生がたくさん勉強していましたけどね。あんな環境を手近に持っている水戸の学生たちがうらやましい。

ところで今日図書館に行ったのは、某新人賞に投稿していたぼくの小説の結果がそういえばもうとっくに出ているはずだということを思い出して(ということはつまり落選していることはたしかなんですが)、それを雑誌に確認したかったのです。

で……

箸にも棒にも引っかかってない!

ちぇっ。

自費出版した出版社もホームページが最近見当たらないし、何やら裁判沙汰になっているという情報もネット上で見かけたし。だいじょうぶか!? ぼくの文学修行は前途多難です。

ちょっと意気消沈しながら水戸駅に方に戻っていつものように川俣書店を物色。下の本を買いました。ベンチャー企業社長の手記、けっこう売れてましたよね、一時期。

けっきょく一気に今日、読み終えてしまいました。これはすごく面白い。帯にも書いてありましたけど本当に小説でも読んでいるような、ハラハラさせる物語が展開しています。

起業から仲間や恩師とのつながり、株式上場、決算黒字へ――決してあれよあれよとすべてがうまくいった成功譚ではありません。藤田晋さんのやわらかな語り口調の裏にどれほどの努力とか苦悩とかが秘められているのかをまずは想像しなければならないし、いくつかのターニングポイントの場面ではもし自分が同じ立場だったらどうするだろうかと考えさせられます。

いちおう、いわゆる「大企業」に勤めているぼくではありますが、この本に書かれているベンチャー精神のようなものは持っていたいなと思いました。それはつまり会社を経営者的な視点からも見るということ、どんなに規模の大きな会社でも。

やっぱり下っ端の事務屋さんですから目の前の数字を処理していくことにしかだんだん目が向かなくなっているのが現状で、先週の株価の終値もわからない有様ですからひどいもんです。うちの会社だって黎明期があったわけで、そこでは起業した住友なんとかさんのものすごい努力があったはず(って、新人研修の時に学んだことはすっかり忘れているな、自分)。そういう人たちと同じような視線を持てたら、ステキに仕事もできるんじゃないかしら。