月別アーカイブ: 2005年5月

コーヒーメーカーを買った

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ケーズデンキに行ったら店内改装の在庫処分中で7480円のところを7000円ぽっきりにしてくれました。ラッキー。コーヒーメーカーも探すとほんとにピンキリなんですね。

豆も挽けるタイプなのでさっそくおいしいコーヒーを朝っぱらから堪能しています。う~ん、充実しているよ。最高だよ。

今日で実習が終わります。早番なのでこんな時間に更新でした。

言葉と生き方はシンプルに

Coccoとくるりによるバンド”SINGER SONGER”のファーストシングル「初花凛々」を買いました。

ひとりのアーティストの成長の軌跡をリアルタイムで見られることの幸せを感じます。言葉も音もすごくシンプルで自然体。それは既に一つの強さの姿です。

傷そのものを歌っていた初期の歌と比較するなら、このシングルにおさめられている二曲は傷を持ったものに対して「私が歌っているから大丈夫だよ」と語りかけてくる内容を持っています。すごいな、やっぱりCoccoはすごいよ。

ぼくもそろそろ一区切り入れなくちゃと思っています。配属を前にして、入社二ヶ月を前にして、自分なりに整理してみよう。変なところに力が入りすぎていたような気がする、この二ヶ月は。もう少し自由に、余裕を持って、自然体に生きてみたい。言葉にすると何とも陳腐だけれど本当にそう思う。やっぱり成長はしたいです、人間として。

夜勤が終わった!

勤労実習も残すところあと二日です。今朝は工場の一番高いところから(非常階段の踊り場なのかな?)鹿島の街を一望しました。昨日は昨日で連続鋳造のロールの中に入るし……おそらく普通に生きていたらまず見ることのないものをいろいろ見せていただきましたよ。経理に行っちゃったら本当に現場からは物理的にも仕事の内容的にも遠くなると思うので、精神的には近く感じておきたいですね。

今日と明日はお休み。なにしようかなー、と考えているうちに日が暮れちゃうんだなー。

ついに配属部署が通知される

な、なんと

経理でした

大丈夫なのか、オレ。エクセルなんて、表計算として使ったことないぞ。数字なんて原稿用紙を数える時くらいしか使わないぞ。

まあでも、全く新しいことをスタートするっていうのもいいかもしれませんね。なまじっか大学でかじったことと重ならない方が変なこだわりとかなくて済むかも。がんばるぞー。

恋愛小説の評価って……

島本理生『ナラタージュ』、読了しました。山本周五郎賞にノミネートされていたんですか? 確認はしていないんだけど。

こてこての恋愛小説でした。おもしろかったし、いろいろ思い出しました。大学生の話なので。

ただ、恋愛小説を読んでたとえば泣くっていう現象は、おそらく独立した作品世界内部で完結している物語に感応しているのではなくて、作品世界によって喚起された自らの過去の出来事に対して感情を揺さぶられているのではないのか? そしてはたしてそれはその小説固有の価値として認めていいのだろうか? といいうことを考えた。あ、ぼくは最近の本屋の店員みたいに泣いてないですよ。

「ナラタージュ」っていうのは「映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ること」(本の表紙より)らしく、この小説自体が過去の大学生時代にこんな恋愛をしましたっていう思い出話の体裁になっている。

だからよけい、読み手は自らの恋愛体験を喚起されてしまう。そうして書かれた小説はエキセントリックな筋よりも、誰もが経験するであろう三角関係とか境遇の違うもの同士の恋愛とか、そういういかにもって感じの筋を選ぱざるをえない。なぜなら、喚起するためには共感させなければならないから。「ああ、自分もこんな思いをしたことがあるシクシク……いい小説だなあ」という風に。

齋藤孝ばりにこれを「喚起力」と名付けてみると、果たしてそれは小説の価値として立項されるものなのだろうか? 小説が持つ一つの「力」としては認められるだろうけれど、本当にそれが作品固有の価値として認められるかどうかっていうのはちょっとわからない。それを通せば共感できない小説はすべて価値のないものになってしまう、極論だけど。

まあ、この話は自分でもあんまりまとまっていないのでこの辺にしておいて、この小説を読んでもう一つ気がついたことがあります。

それはいかにもパソコンで書かれたような文体だ、ということ。

たとえば段落の飛ばし方。けっこう断片的に書かれてあったものを後から並べたような感じがする。だから読んでいても流れに乗れない、あるいは最初から文章の流れというものが無いようなところがある。

それから会話。無駄にだらだらしてしまっていて、もちろん意図してだらだら書く作家もいるけれど、この小説は会話自体に意味を持たせすぎている上にだらだらしているので、ちまたによくある「小説の書き方 会話編」の悪いお手本のように見えてしまう。

物語の筋自体も、最後の最後で急いでピリオドを打っちゃった感じ。場面場面の設定やときどき出て来る「気の利いたセリフ」はいいんですが。

アマゾンのレビュウにも書いてあったんだけど、この小説のすごいところはやっぱり21歳の大学生の女の子が、大学生の恋愛を回想の形で描き切ったというところにあるのかもしれません。それはやっぱりすごい。こんな長いのわしゃ書けない……。

そんな感じで『ナラタージュ』、けっこう売れているみたいなので一読三嘆するのもいいやもしれません。

今日は仕事がお休みです。合コンに行くらしいです。

聴覚の愉楽

ぼくはワインが好きなんじゃなくて、瓶に入った飲み物が好きなんだよね。なので缶チューハイも缶ビールもほとんど飲みません。それはコップに注ぐときに、瓶だとカチリと音がする、それが好きなんです。

あるいは、缶入りに比べて瓶に入っている方が中身を大事にしている感じがする。あくまでも、印象ね。

プラスチックの成形物って見た目はキレイなんだけど音のことまで考えられていないような気がする。陶器のマグカップを堅い木の机の上に置く音とか、いい紙を使ったノートをぱらぱらとめくる音とか、けっこう気をつけて耳を澄ませば生活の中にある音ってけっこうあって、ぼくが言いたいのは「生活音の性質向上」みたいなことなんだと思う。ま、くだくだしくなりそうだからこれ以上は推察してください。みんなうるさいっていうけど冷蔵庫がブーンって鳴る音とか、けっこう好きですよ。

『墨東綺譚』を読んでいたらこれまた荷風らしい表現があって、実はここから今日のエントリーを思いつきました。(引用は新潮文庫より)

一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾かせないと云うことで。雨のしとしと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の声が目立って、いかにも場末の裏町らしい侘しさが感じられて来る。

主人公は近隣でがなり立てる「ラディオ」や「蓄音機」の騒音から逃れるため銀座界隈までやってきます。そこには近代文明に犯されていない戯作的世界が広がっているというわけ。

『墨東綺譚』にはさまざまな音が活写されています。おそらく電灯の発達していない時代には視覚よりもむしろ聴覚が重んじられていたはずで、だからこそ音に対する感覚も鋭敏だったのかもしれません。

会社に入って寮生活を始めてからテレビを買っていません。音楽も十代の頃みたいに四六時中流しているわけでもない。周りが静かなので窓をちょっと開けてキーボードをカタカタ鳴らすというのが、いまのところぼくにとっては至福の時間です。

全体と部分とを往復する

たまには師匠のお言葉から一つ引用。

理解することは、たんに部分から全体へ向かうことではありません。単語だけ知ってても文章は読めません。部分と全体をつなぎ合わせて両者を往復できてこそ本当の理解です。
――霜栄・内野博之『現代文 解法W-ファイル』

いま書いている小説がちょっと行きづまっていて、ちょっと今日メモ帳にプロットを書き出していじくってみたら意外にも新たな筋を思いついてしまい、さらには勤労実習中ということもあって、もしかしたら小説を書くことと鉄を造ることとの間に今日の題名のような共通項があるんじゃないかと思い至ったわけです。

結論から直截に言ってしまえば下の図のような感じです。

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JR西日本の脱線事故に関して、現場の運転手がどれだけ苦労しているのかを上の方の人間はもっと知ってくれという内容の投書を新聞で読みました。そう、確かに現場は大事。現場がなければなにも動かないしなにも生まれない。

けれどあまりに現場第一主義を貫くのもおかしいと思う。就活中に聞いた言葉で、どこで聞いたか忘れたんですが良い意味でも悪い意味でも印象的なものがありました。

「現場の声が大事だってよく言うんだけど、それは結局現場レベルの発想でしかない」

つまりぼくら総合職で入った人間は現場とは違うレベルの(ここで言うレベルはどっちが上でどっちが下とかいう比較の問題ではなくて、次元とか世界とか比較不可能な概念としてね、念のため)発想をしなければならない。

仕事のことはまだよくわからないので小説を書くということに当てはめて考えてみれば、たとえばプロットも構想も立てずに書き始めるとどうしてもあとでこうしておけばよかったとかいろいろ書き直したくなる部分がたくさん出てきてしまって無駄が多い。逆にプロットばかりに凝ってしまうと荒唐無稽になってしまい、実際に原稿用紙に書いてみるととんでもなくリアリティのない話になってしまったりする。

だから、原稿用紙に向かう時間とプロットをメモ帳に書く時間と、両方がやっぱり大事なんだと思う。今日プロットを書き出してみた小説は、実はずっと「現場レベル」での作業をしていて、あの語句をこうしようとかこことここの段落を入れ替えちゃおうとかそんな細かいことをぐちゃぐちゃやっているうちに「あ~、この小説読んでも面白くないな~」と煮詰まってしまったというわけ。

おそらくこの先会社でぼくたちは○○企画と呼ばれるような全体を見渡す部分に深く関わっていくことになるのだと思う。そのときに、逆に「全体」というレベルに偏重しないことが大切なのだろう。そのためにも現場レベルを知っておかなくちゃならない(そのための勤労実習だ!)、そしてゆくゆくは全体と部分とを自由に行き来できる視点を持つようになりたいですね。

炉が目の前で回転しとるよ!

工場の雰囲気もだいぶ慣れてきました。人の顔をおぼえてきたというのもあるのかな。

やっぱりここは鉄鋼会社なんですね! って、なにをいまさらだけど。現場にいると目の前で巨大な装置があっちゃこっちゃクレーン(これもそれなりの重量)で運ばれたりぐるぐる回転したりばんばん火を噴いたりしているので「重厚長大」を肌で感じることができます。ちょうど昨日からは湯に直接関わる部門にいるので熱さがヤバいです。っていうか、普通に顔が黒くなります。

それでも制御自体はコンピュータが行っている部分が多くて、数字がババーッと並んでいる画面の読み方を教えてもらったんですが(そしてまだ専門用語の意味があやふやだ……)ほんとに複雑です。湯を固める速度を決めるのにいろいろな要素がからんでくるんです。

事務系はだんだん現場から遠ざかっていくということなので一日一日しっかりと見て学んでおきたいですね。ときどき「なんでおれはこんなところでボルトを締めているんだろう……」という気持ちにもなりますが(笑)

大江健三郎はしばらくいいや

やっと『遅れてきた青年』を読み終わりました。も~、話の筋としてはそんなに難しいものではないんだけどとにかく文体がこれでもかっていうくらい大江節で、疲労困憊気味です。

「東京と性交したい!」とかいうのはバタイユの影響とかなんとか言われるらしいけどもうなんだかよくわからん。まあ、でも戦後世代(この場合は戦中に青年時代を送った人のことね)から全共闘までの精神史(と言ったら大げさだけど)を1960年の時点でちゃんと描いているっていうのはすごいことなのかなあ。

「おれにとって戦中派は、戦争の時代にはヒーローだったんだけど、いまは、きみの言葉でいうと、きみの好きな言葉でいうと、おれが情熱をたかめるたびに、アンチ・クライマクスの冷水をかけにくるのが戦中派だ、あの連中があらわれると、なにもかもうまくゆかなくなるような予感がするんだ」

こういう世代間の隔絶って終戦を挟んだからこそいっそう深いものになってしまったのかもしれない。今ぼくたちが「世代が違うなあ」と簡単に口にするけれど、そんな軽いものではなかったのかもしれない。大江が三島を、あるいは三島が大江をどう思っていたのかとか調べてみると面白いかもね。

個人的には前半の部落差別に関わる部分なんかが、会社で同和教育を受けたあとだったので興味深かった。後半はなんだか自分の問題としてはとらえることができなかったです。

三島ついでに読書論を一つ。

古典であろうが、近代文学であろうが、少なくとも一定の長さを持った文学作品は、どうしてもそこをくぐり抜けなければならぬ薮なのだ。〔中略〕時間をかけてくぐり抜けないことには、その形の美しさも決して掌握できないというのが、時間芸術の特色である。
――三島由紀夫「日本文学小史」

長くて難解な小説ってどうしても途中で放り出したくなるんだけど、そして最近は「自分にとってつまらないものは読む必要がない」なんて効率ばかり持ち出す読書論も多いけど、こと小説に関して言えば、やっぱり最後まで読まなければならないと思った。

ぼくの場合、読書は娯楽でもあると同時に次になにかを書くための布石としなくちゃならないから、最後まで読んでいないものにあれこれ言うのもアレだしね。

なにより、読みにくさって大事だと思う。それは、これまでの自分が知らない文体(スタイル!)に触れている瞬間なわけだから。高校の時の先生も言っていました、難しい本は読まなきゃ読めるようにならないってね。

今度は社員証がやってきた

ピカピカ金色の社員証です。っていうか、三井住友ビザカードです。クレジットカードに社名が入っていて、社員証を兼ねているという感じ。こんなの初めて持ちました。

ネットショッピングがこれで簡単にできますね。今までは代引きで面倒だったんですが、これで茨城に居ながらにして心置きなくお買い物ができます。

昨日今日とお休みです。明日から五日間は15:00から23:00までの勤務になるので実質明日も半日休みのようなものです。15:00までに出勤って、大学生みたいですね。

ちょっと気を抜くと食生活が乱れて口の中にデキモノができたりします。このまえ調子のってワインをひとりで二本空けてタバコぶかぶか吸ってからちょーっと痛い。トマトジュースと玄米コーンフレークでなんとかしのぎたい。

洗濯とかもだんだん面倒になってきたんだけど「人生は細部に命が宿る」が座右の銘なので、今日もがんばってアイロンをかけました。丁寧にね、生きたい。