買いすぎ

水谷修『夜回り先生』
村上春樹『アンダーグラウンド』
石川九楊・加藤堆繋『書家101』
『田村隆一詩集』
図解雑学『構造主義』

を、買いました。久しぶりに、どの本も面白いです。だんだん本選びもうまくなってきました。

どうやって本を読むか、という問題をしばらく考えていて、いろいろ参考書をひもといたんですが結局どれも行き着く先は「自分の古典は自分で探せ」ということなんですね。そしてどうやってその本を「自分の古典」にするかというと「何度も読み返す」ということです。

何度も読み返せる本が少ないですよね、今は。もちろん今、いわゆる「クラシック」「古典」と言われているものを読むのも大事だけど(岩波教養主義でも、権威事大主義でもなくね)、ベストセラーだって何度も読み返すことができれば「自分の古典」になるということでしょ。

ぼくがサイトで引用する本はたいていぼくにとっては「古典」です。なので同じ本からいろいろなところに引用してしまいます。ブックリストも何度も読み返している本ばかりですし。

ぼくは図書館が嫌いで、本は身銭切って買うものだというポリシーがあるので今まで本にいくら使ったかという計算をするのは怖いんですが、たいていのものははずれで「くっそー、この作者、つまんねえ本書きやがって! どうして気がつかなかったんだ、だまされた~」という悔しい思いをかなりしてきました(最近では石原千秋の受験関連本、あれは、読んでいて不快になります。こんなせまい小説観を持った人間が「研究者」だなんて…)。部屋の隅にはハズレ本がうずたかく積み上げられています。おかげで本を買うということにはかなり神経を使うんですよね。福田和也も「立ち読みせずんば買うべからず」とおっしゃっておりますし。

ま、そんなこんなで卒論に関係ない本ばかり買って現実逃避している私でした。


ブッキッシュ

読み捨てた本も含めると300冊は下らないじゃないかと思えるくらい、本の虫なんですが、その経験を生かして言っておきたいことがあります。

文庫の造本についてです。

新潮文庫は一度目はいいんですが、二度目読むときにかなりの確率でページが根元から外れます。ぼくは本はぎちぎちと限界まで押し広げて読むので、これでダメにした本がけっこうあります。そんなありさまなので「本なんて一度読めやいいんだ、二度も三度も読むような本はうちは出してないよ」という態度が造本から伝わってしまいます。

中公文庫は古本で買うと必ずページが外れます。年単位で保存する場合には向きません。「うちは歴史に残る本なんか出さないよ」ということなのでしょうか。

ちくま文庫は当たり外れが激しすぎます。造本のいいものはかなり頑丈にできていますが悪いものはそれはもう悲惨なありさまになります。ちくまはめったに増刷をしないことで有名ですが、いい本出しているんだから、そこも何とかしてよ。

角川文庫は造本だけはいい。もう少し実のある本を出してください。

講談社文庫は可もなく不可もなくですが、講談社文芸文庫はひどい。少しでも力を入れると薬品で固めた部分が二つに割れてしまいます。割れ物を触るようにして読まなければならないので値段も含めて何とかしてください。

さて、なんと言っても造本中身共にエクセレントなのは岩波文庫です。別に嫌味な教養フェティシズムを標榜するわけではありませんが岩波はすばらしいです。第一ページ目からしっかりと背に糊付けされていて、五年くらい経つとさすがにページが茶っけてきますがびくともしません。ページ数が多くて厚いものも真ん中のページで背が折れることもなく、無造作にかばんの中に入れておいても安心です。カバーも新潮社と違ってビニールが張ってあるので汚れに強いですし文句なしです。

まあ、岩波をほめるのもこのくらいにしておきますが、これは売り方の違いが影響しているのも知れません。ふつう本は売れなかったら本屋から出版社に返品されるのですが岩波は本屋に買い取らせて売るので返品が効かないのです。よく文庫はページの部分に斜めに切った跡がありますが、あれは返品された本の汚れをページの端を切ることによって落とし、もう一度出荷しているのです。岩波はそんなことはありませんから。ページもめくりやすく本が作られているのです。買い取り制だからこそ商品の質には文句をつけられない状態にしておく岩波書店のあり方はすばらしいと思います。もちろん異論反論もあるんですがね。


村上春樹

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
『中国行きのスロウ・ボート』
をたいらげる。『アンナ・カレーニナ』を読もうと思っていたのに、おかげで中断だ。

長いこと、ハルキは読まず嫌いだった。どうしても「古くさいなー」としか高校生のときには思えなくて、その感性が正解だったか不正解だったかはわからないけれど。あるいは、太宰同様、作品と自分との距離を保つことができないと思ったのかもしれない。そういう私小説的読者の呪縛から抜け出せそうになってきたので、最近よく読んでいる。でも『ダンス~』も『クロニクル』もまだ読んでいないんですが。

「踊る小人」(こういうホムンクルス的なキャラに弱い…)「貧乏な叔母さんの話」と上記対談本がおもしろかった。「おもしろかった」と素直に言える短編と出会ったのは何年ぶりだろう。

今日は天気がいいので、昼に起きて、コーラを飲みながらやっぱり本を読む。


『八日目』

『八日目』という映画をレンタルビデオで見ました(下の写真はDVDのものです)。これはダウン症をテーマにした作品です。


八日目

『ジョゼ虎』はねえ、なんだかんだ言ったって、池脇千鶴ですからねえ、皮一枚で様になっているんですよ。要するに「障害」はテーマにすぎない、という言い方ができてしまうんです、こてこての恋愛映画ですから。『八日目』は逆にかなり「障害」と真っ正面から取り組んでいてけっこう(というかかなりの度合いで)古典的な展開ながら、まあ「いい映画」と言っていいのでしょう。

でも『八日目』もダメな人はダメなんだろうなあ、という気もする。「障害者」を扱った映画は数知れずあるけれど、何の疑いもなく道徳的な展開にするか(『八日目』のパターン)、一見ア・モラルを装いながら発想はとんでもなく古臭い(『ジョゼ虎』のパターン)か、逆にモラルを装いながらよく考えるととんでもないことを言っているか(うん、こういうのあったら見たい)、徹底して不道徳に走るか(そんな映画があったら映倫が許さないと思うが)なんだろうなあ。

いずれにせよ感心したのは、登場する「障害者」に対する口ぶりが妻夫木もアリーも子ども扱いしていない、たとえば赤ん坊をあやすような言葉づかいになっていないところです(ぼくは無理でした)。そこにむしろ葛藤のなさを読む人もいるかもしれませんけどね。

こういう問題は表象としての分析が、知らず知らずのうちに現実に食い込んでけっこうどぎつい結論になりがちなので、まあ、この辺で口をつぐみます。あくまでも作品論です。


DVD『ジョゼとトラと魚たち』

を見ました。あ~、こういう映画だったんだあ。あ~、こういう映画なのかあ。いや、いい映画だと思います。すっっっごい道徳的だし。こういうのを批判してはいけないと思います。けれど、そう思わせるテーマを選んだところがちょっと卑怯かな、という気もします。感動はするんですが、後で「なんで、こんなんに感動しているんだ、俺は」という後味の悪さを残します。いやいやいや、「いい映画」だとは思うんですよ。でもぼくの肌には合いませんでしたなあ。