齋藤孝『35歳のチェックリスト』

を、読みました。

いろいろ読み方は有ると思います。世間一般的にサラリーマンやって、結婚して、子供も産まれ・・・みたいなまさに自分のような(そりゃまあ、事情はそれぞれあるのだろうれど)人間が読む分にはまさに道徳の教科書のようなものなんでしょう。今の時代に合わせている部分もあるし、それでもやっぱりここはこだわってくれという著者の思いもよく分かる。

それでもなお、やはり文学を嗜むものの目からすれば、ここからこぼれおちるものってなんだろう? と思ってしまいます。貯金もなく結婚もできず予備校講師をやっていても、若い学生たちが目を輝かせて授業を明けに来るのならそれでいいじゃないか。自分の趣味に時間と金を費やし続け異常なまでの執念を文化として後世に残す人だって、子供を二人生むことと並ぶくらい立派じゃないか。

でも、多分これはそういうふうに読んではやっぱ誤読で、やっぱり世間一般の大多数のサラリーマンが読んでウンウンと唸るための本なのだと思います。むしろ批判されるべきは「女性総合職問題」にまったく触れられていないという点で、その意味で本書もまた古き良きオジサマたちの嗜好品とも言えるのです。イイタイコトはわかる。でも、自分の年齢に責任をもつのは自分だ!


よしもとばなな『王国』その1〜3

いったんこれでインプットは終わり。

もちろんこの『王国』シリーズはその3で終わってはいない。そこが、今ままでの作品と違うところだ。次を感じさせる、というか。その3では、主人公が別れを経験する。ここまで長く、出会ってくっついて別れるというところまで描いた小説はばななには珍しい。そして、その別れは、もう最初から相手と自分はぜんぜん住む世界が違っていて、たまたま似たような境遇で似たような気持ちを抱えていた時にたまたま出会ってしまってつかの間それを恋愛と勘違いしていた、というような。ばなな自身も、インタビューで下のように言っている。

ほら、よくあるじゃないですか、社員旅行だの歓送迎会だので急にいちゃつきだす男女とか。広い大きな意味で言えば、同じようなものかもしれないですよ、雫石と真一郎は。お互いに自分たちの設定を変えたいときにたまたま出会って、でもお互いの役割を終えたから別れることになる。でもその別れはきれいごとでは済まなかった――そういう話かもしれないです。(「波」2005.12)

うまい例えだな…。

要は主人公雫石にはまだまだこれから先に大きな物語が待っているというようなことを、それを言うためだけの小説だったような感じもする。それは、親という立場になったからならではか? それは言い過ぎかな? 雫石の子供っぽさへのついていけなさみたいなものは、今までの主人公とは少し違うと思う。その子供っぽさというのがつまり王国=箱庭の中で純粋培養されたような感じを言っているのかな。

三十代という問題に戻るなら、この作品を書くことで、よしもとは別にぼくたちが期待しているように三十代を総括しようとはしていない。むしろ自分が親になる四十代への大きな準備として、ひとつのオープンクエスチョンとして置かれたおおきな布石のように思います。しかしてその4は雫石の娘が主人公になるわけですが…その間がだいぶすっ飛ばされているような気もするけど、それはいつか書かれるのだろうか?

『海のふた』とテーマを同じくしているという発言からすると、結局「自分次第」というところに行き着くのかも。自然と調和した生活を送ろうと、送るまいと(その最右派が都会生活なんだろうけど)自分の王国を築くことでしか人はやっていけない、ということか。そして高橋くんの庭というのは、この小説で唯一、「王国」という言葉が出てくる箇所なんだけど、そういうことを小説的な仕立てで見せてくれる箇所として生きているのかもしれない。人びとの「王国」同士が刺激しあう。そういうのが人が生きていくことだろうし、また人が自然と対峙するときの一つの正しい態度なのかもしれません。雫石の職業なんてまさにそういうことだよな。

そして、まさに雫石という作者にとってもよくわからない、幼い存在がそういうことに気がついていく過程を描いているということが、三十代の総決算としての意味合いを持つということに……無理矢理ですが、つながるのかも。それはもう親目線なのだ! 雫石だけは「知らない人にインタビューする」感じで人物造形がされるいっぽうで周りの男達が作者の男性的な分身であるとするならば、『王国』に導入されたテクニックとして、新しいものがある。作者のキャリアとしては自分のよく知っている人を登場させる作品を書いてきたところから、『身体は〜』で知らない人を登場させてインタビューしていくように小説を書き、『王国』でその2つがミックスされている。しかも、それは「人が生きていくことは、王国=庭・箱庭を作っていくことだ」という一つのテーマを持って、人と人が交流していく様(しかもどうしようもない別れまで含めて!)が描かれている。

しかし「王国」って結局は「キッチン」なんだよな…。

というところで、そろそろアウトプットにとりかかる頃合いのようです。


よしもとばなな『海のふた』

伊豆ものであり、店もの。店ものはたまにあるけど、結局は作者の創作に対する一つのマニフェストになっている。小説自体が。テーマは『王国』と同じ。これはかき氷屋だけど、王国のお茶屋さんと、言われてみれば建て付けは一緒。そういうものを書くということが一つの、確認行為であり、高らかな宣言なんだろうな。日記を読んだ上で読むと、なんとなく奥行きを改めて感じられる作品です。小説としてはたぶん、あまり、うまくないんでしょうけどね。でも、この文庫のアマゾンの書評群にはなんとなく独特の熱があります。読むとなにかフィジカルに、何かをしたくなるような、人を動かすチカラがあるのは確か。


よしもとばなな『バナタイム』

結婚〜妊娠発覚前後の出来事を中心に雑誌「GINZA」に連載したエッセイ集です。なんとなく、吉本らしくない緊張感がみなぎっています。日記編を読んだ身としてはお馴染みのエピソードが満載ですが、やはり結婚直前のごたごたが答えているようですが……日記のおちゃらけた感じは、あれはあれで立派な創作なんだなと感じます。

最後の回で自分が死を描くことについても触れています。ただ、それは結局死んでいく人そのものや死そのものと向き合って描くというのではなく、あくまでも死によって残された人びとの懸命な姿を描くことに彼女の焦点はあるのだということです。これは確かに『キッチン』以来そうなんだよなあ。それは本当に、ずっとぼくも彼女の作品を読み続けている中で感じることです。


河合隼雄・吉本ばなな『なるほどの対話』

これは昔、買ったんだけれどあまりに面白くなくて途中でやめて本棚に眠っていた文庫本です。新潮文庫からは河合隼雄の対談ものがいくつか出ていますが、やはり村上春樹との対談が抜群に面白く、どうしてもあれを基準にしてしまうと、ずいぶんと物足りなさは感じる。三十代問題もあまり収穫なし。ううむ。


吉本ばなな『ひな菊の人生』

時間軸があっちゃこっちゃいくので読みづらい。が、筆者としてはなにか新しいことを試みようとしたというのは確かだ。少なくとも、この本は、文章が独立してあるのではなく、奈良美智の絵があってこそ、この小説は生まれた。

だから、絵のような小説、とでも言うべきか。それは、一枚一枚が「印象的」である必要がある。ぱっと見て、「あっ」と心の奥底に届く。あの、足の長い宇宙に浮かんだベッドに眠るダリアの姿のように。絵は、瞬間が勝負だ。動かないから。小説はでも、時間をかけて読まなければならない。この小説は、絵が小説に寄り添い、小説が絵に寄り添おうとするそのギリギリ重なる世界を、うまく読む者・見る者に開陳してくれる。

ポニーテール(トックリラン) 中鉢(8号)

ノリナってこれね。


よしもとばなな『引っこしはつらいよ』

愛犬が亡くなって、40歳を迎える年です。誕生日が七月なので、後半は本来的には読む必要が無いのですが、とりあえず。

でも、40歳の誕生日の記述は淡々としていますね。いざその日になって心境がガラリと変わることはないんでしょうが、じわりじわりと効いてくるものなのかもしれません。

Q&Aで、「high and dry」の設定を十四歳の女の子にしたのは、親というものが重要な最後の時期だからと答えている。こういうことをさらっと言えるところが、三十代ならでは。

一度、作品に出てくる登場人物の年齢早見表でも作ってみようか? そうすると、なにか作者の年齢との相関関係が見えてきて面白いかもしれない!


よともとばなな『さようなら、ラブ子』

赤ちゃんは順調に成長。
一方で愛犬の死。作品としては『海のふた』のころ。『海のふた』は年配の方からの反響がけっこうあったようだ。
まあ、三十代問題という意味ではさほど収穫のない巻ではあったが、子供の成長というのが日記の占める割合として大きいのはひとつの事実。


毎日新聞取材班『リアル30’s』

正直、あんまりピンとこなかった。少し前はワーキングプアの本とかかなり読んでいたんだけど、いつの間にか、そういう課題意識がどこかへ行ってしまった。たぶん、もうあんまり今の自分の置かれている状況より他の可能性をあまり探らなくなったのだと思う。いつまで言ってるんだろう、という割り切りでもあり、あきらめでもあり、この道しかないという覚悟でもあり。それは自分としてはいいことだと思う。大きなものに期待することもしない。自分でコツコツやっていって一生終われればいいんじゃないか。そんなふうに思う。この特集事態が少し、三十代に期待し過ぎだよ、残念ながら。