小説『合併(仮題)』2

 先の東北を襲った震災以来、廊下の照明は落とされたままその薄暗さはすっかり定着してしまった。その中を要は靴音を立てずに進んでいく。オンライン化便益積み上げ会議──通称「国内営業分科会」は必ず営業総括部が居を構える十二階の会議室で開催される。営業総括に無駄足を運ばせてはならない。必ず、下階のものが上階へ伺いに参上する。そして間違っても社内会議のためにエレベータを使ってはならない。廊下の途中で、屋内非常階段へ出るための、耐火ガラスがはめ込まれた重々しい非常扉と出合う。片手にノートパソコンを持ちながら、ほとんど肩で押すようにして扉を押し開けると、耳にははるか下、あるいははるか上の階で階段を昇り降りする足音のこだまが響いてくる。
 階段を登りながら要は、さっき聞いてしまった「社長が結局頭を縦に振らなかった」という清一の言葉が、頭の中を上から下へと響きわたっているのを抑えられずにいた。今日のこの分科会にどんな顔をして臨めば良いのか? 素知らぬ表情でいつもと変わらず電卓を叩いて終わらせるのか、もはやゼロ地点に戻ってしまったモチベーションを奮い立たせて「俺達だけでも目標の二倍、三倍の積み上げをしてひっくり返してやろう」とあえて身勝手な正義を今更持ち出すか、あるいは極めて事務的に会の解散を宣言しこの検討が始まる前の日常へ無言で戻っていくことを潔しとするか。
 けれど十二階のフロアへ足を踏み入れた途端、廊下の影から走ってきた人物と肩が触れ合いそうになって要が身を引くと、相手は営業総括室の坂井アシスタント・マネジャーだった。分科会には営業総括の代表として必ず顔を出してくる。
「おっ、椎名くんか、ちょうどよかった。分科会はいつも通りやってくれ。色々とまた後で耳にすると思うけど、分科会は淡々といつも通りやってくれればいい。ぼくは今日は出られないから、よろしく頼む」
 それだけのことを早口でまくし立てると、坂井はエレベータ乗り場の方へまた全速力で走り去っていった。「いつも通りやってくれ」という二度も繰り返された指示に、ひとまず従う選択肢しか無いようだった。
 IDカードをかざして執務フロアの中へ入ると、いつもとは違った慌ただしさが満ちているのを、要は直感的に感じる。部長、室長の座っているはずの席が総じてもぬけの殻た。もちろんそういうことはたまにある。たまたま上司陣の出張のタイミングが重なった時などは、スタッフたちの顔はむしろ完全にほころんでおり今日だけはマイペースに仕事を進めてあわよくば早く帰って旨い酒でも飲もうという「自由」な「活気」に満ちている。けれど、窓際の部長席の机の上はつい今しがたまで打ち合わせが行われていたかのように乱雑に書類が開かれたままだし、室長席の椅子は、そこに座っていたはずの人物が弾き飛ばされたかのようにあらぬ方向へ背もたれを向けたまま主人の帰りを待っている。なにより、残された社員たちがむやみにパソコンの画面に顔を近づけてはけたたましくキーボードを叩いている様子は、自分の今目の前にある仕事以外の事情には積極的に関わりたくないというなにか強い拒否感を見ているものに強いてくるのだった。
 要は会議室へ向かう足をつい止めて、ちょうど傍らのデスクで皆と同じように緊張の面持ちで机に向かっていた物流部の新人、有坂仁絵に声をかけた──よくよく覗き込めば彼女はただ単にインターネットのニュースサイトを見ているだけだったからだ。
「何かあったの?」
「ああ……何って、これですよ、これ」
 有坂は経済紙のニュースサイトに速報として報じられている記事を指さした。「宝島カンパニー、パパゲーノとの資本提携全面解消」とある。速報なので記事本文には両社の簡単なプロフィールとこれまでの経緯の要約が載っているだけである。宝島カンパニーは言うまでもなく、要が属する女児向け着せ替え人形のマーケットの中では「カリンちゃん人形」によって不動の独占的地位を築いている。要たちの売る「すみれちゃん人形」は一時期の追い上げ虚しく、現在ではその後塵を拝するにとどまている。ところでパパゲーノ社はアメリカはカルフォルニアに本社を構える、玩具小売では世界規模を誇る超巨大企業で、約二十年前に日本へ進出するに当たって宝島カンパニーと業務提携を組んだ。宝島カンパニーが持つ、日本独自の複雑な流通・商習慣、家庭で「おもちゃ」を買い与えることへの道徳的、教育的、経済的な知見と、「外資」を盾にした合理主義とが強力なアライアンスを組み、日本全国に宝島カンパニーの商品を満載した玩具販売専門の巨大店舗が展開されて行った。それらは郊外の家族層に広く受け入れられ、空前の収益を両社は上げた──しかしそれももう、十年前の話である。今や店舗は最盛期の三分の一まで「合理化」が進んでいる。
 この二社の提携の解消も、記事は、互いのメリットが様々な環境変化によって蝕まれ、もはや日本は魅力的なマーケットではなくなってしまったことが要因であることを推測していた。
「いよいよパパゲーノの日本撤退も確実なものとなったってわけか。──でも、これとうちと、なにか関係があるの?」
「……ここだけの話ですよ、誰にも言っちゃだめですよ。さっき、この速報が出る直前に宝島の社長が突然来たんですよ」
 要は天井を見上げる。役員クラスが執務するフロアは十四階だ。そこだけは予めアポイントがなければ社員でも立ち入ることは出来ず、その階のためだけの受付も設けられている。カーペットの色も違えば、廊下の明かりも煌々と灯されている。要も、一ヶ月に一度開催される副社長報告会の会場設営のために分厚い資料を持って何度か訪れたことがある。そこに今、宝島カンパニーの社長が自ら訪れているという。
「にわかには信じられないな」
「それで総括部の役員連中が急に集められて、たぶんいま、役員室でなにかが起きてますよ」
 だがこのまま待っていてもしかたがなかった。あくまでも要がしなければならないのは、分科会を「いつも通り」に進行させることだった。そして開始時刻は既にして過ぎている。
「どうもありがとう」
 これ以上の野次馬的好奇心を表出しないことを要はサラリーマンとしての美徳であると信じていた。有坂仁絵の方はまだ誰かと何かを共有したくてうずうずしている様子だったが、要は大げさに腕時計を確認する仕草をして見せると、いつもの一二〇六会議室へ歩を早めた。
 ドアを開ければ国内営業部の若手の面々が、いつものように互いに持ち寄ってきた資料のコピーをちょうど配り終えているところだった。会議は開催できそうだった。彼らの横顔を見ながら、要は汗だくの坂井アシスタント・マネジャーに言われたのとは関係なく、こういう時こそ、あたふた逃げずに腰を得てじっくりと仲間たちと議論をするということが大事なのだと自分の思いの正しさを確認しようとする。
「ごめん、遅れちゃって。資料の配布は大体済んだら席につこう。とりあえず選集の議事録から確認をして、それから各室の進捗状況を報告しよう。ひとまずゴールも見えてきたから、今日は数字の積み上げよりも実際に実行に移したときの課題について議論すね時間を十分にとりたい。報告は簡潔に。いいかな?」
 席に座ってノートパソコンを傍らに置きながら要は言う。
「マクロには、ソーシャルゲームによる課金収入と、このゲームを通じて得られる知名度アップがポイントでした。どっちに重きを置くかは事業によって異なると思う。この点は各室から以前より報告のあるとおりです。共通の課題としては、このポータルサイトそのものを広く知ってもらうためにまた宣伝がかかりすぎると何をやっているかわからないということで、これは営業総括部として──」
 議事録の確認をしながらも要はこの部屋に既に充満している「異変」を感じない訳には行かなかった。既に見えない焦燥感がパンデミックのように広まってしまっていた。それはもしかすると、要がかわらぬ日常を演出しようとしていることに対する抗議なのかも知れなかった。三十代の彼は時には二十代の社員の気持ちも代弁しなければならないが、同じくらい会社側の意向を若手に浸透させる役割を担うこともあった。そういう時、「椎名さんも『あっち側』に行ってしまったんですね」とさも残念そうに言い返されることは少なくなかった。いま、要は自分で意識していた以上に、「あっち側」の世界から彼らを見下ろしているように見えているのかも知れなかった。
「──ここまでが、先週の議論の総括です。大丈夫かな?」
 要は顔を上げる。ロの字型に並べられた机に座る一人一人の様子を伺う。その横顔を一人ずつじっと見つめる。目だけは資料の文字を追い、耳だけは要の説明を拾うべくこちらに向いている。けれど右手はボールペンをくるくると指の間で旋回させ、身体は何かを我慢しているかのように異様に浅く椅子に腰掛け、誰かが鼻をすすれば連鎖的に他の人間もくしゃみを始め、背中がかゆいのか何度となく手を背中の方へ回し、貧乏揺すりをし、あくびを噛み殺し、あるいはあくびをわざと見せつけてくる。椅子の位置を直し、革靴を一度脱いでは履き直し、腕時計を外して机の上に置いたかと思えば携帯電話を開いてまだたっぷりある会議時間の残りを数える。


小説『合併(仮題)』1

 壬生第二工場とのテレビ会議の最中、営業部から参加していた椎名要は、議論が暗礁に乗り上げたのを境にカメラの死角へ椅子をずらすと、眼を閉じて長考に入る素振りを見せた。その頭の中ではかつて小学生の頃──すでに二十年ほど前になるが、家族旅行で訪れたある美術館のことをふと、思い出していた。
 ビスクドールのコレクションを見たいと言い出したのは、衛生陶器を扱う会社に勤めていた父親の単なる気まぐれだったのかも知れない。けれど思いの外、母親も、前の晩に宿泊した水戸のホテルのロビーで目にしたのだろう、その美術館のパンフレットの内容を憶えていて、自身のヨーロッパアンティーク趣味と符合したらしく、この夫婦にしては珍しく意見の一致を得た。
 夏休みで、北関東をぐるりとドライブ旅行をする途中だった。その年の春に、十年ぶりに車を買い換えたこの家族にとって、車で行きさえすれば特に目的地は問わない気ままなものだった。
 陶器の一大生産地としても知られるK市に位置するからなのか、陶器製のアンティークドールである「ビスクドール」のコレクションは日本においては唯一であり、かつ最大の規模を誇ると、確かにその美術館の案内書は誇り高く断じていた。薄暗い緞子を垂らした背景の中に、無数の人形が立ち並び、その二つの目が窓の外の光を映して鈍く輝いている。粗悪な印刷になる館内と思しき写真は、遊びたいさかりの小学生にとって、少なくとも心ひかれるものではなかった。しかし既に十代にさしかかろうとしていた椎名少年にとっては、両親の喜ぶ姿に自分の意志を差し出すことを、一種の大人びた喜びとして受け取っていた。そういったタテマエを打ち立てることの美徳を感じるくらいには、背伸びをしたい盛りなのであった。
 水戸から乗った高速道路のインターを降りて、ほとんど高速道路と変わらない幅員の道路をほとんど同じ速度で走り続ける。道の両側はただ、何も無い大地が広がっている。何も、無いのだ。建物が建っていない耕作地であるとか、砂利の敷き詰められた大型バス専用の駐車場が広がっているとか、そういうことではない。ただ、なにもない、なんの目的もない土地が見渡すかぎり広がっている。子供心にも、都会で育った椎名少年の眼には、そういう純粋な空隙もまた奇妙で珍奇な風景であったに違いない。だから突然山深い細道に車が入り込んでからは、目に映るものよりもむしろ、舗装の整っていない田舎道で新しいセダンがでこぼこをよく効くスプリングで振動を吸収し波を滑っていくような身体感覚の方へ記憶の濃度は移り変わる。
 やがて峠らしき山を越えると一気に視界が開ける。再び道幅は広くなり、車線は増え、今度はその両側にはコンビニやファミリーレストランの派手な色彩の看板が立ち並んでいる。よく知っている生活のよく知っている光景だ。途中でコンビニの駐車場に止まりながら分厚い地図帳と道路標識とを何度も見比べれば、意外と美術館の駐車場はすぐそばにまで迫っていた事を知る。
 車を降りて美術館の建物まではなおも坂道を登っていかなければならなかった。夏の暑い盛りの真昼だった。アスファルトの足元からむんと立ち上ってくる熱気と、影一つ落とさない地面のむしろ日に照らされた白さとが顔に迫ってくるのを要は感じた──より正確に言うならば、その直後に目にすることになる人形たちの住まう城の暗さとの対比において。
 「城」というのがいささか大げさだとしても、それは尖塔と呼ぶ他ない、この平地の贅沢な土地にあっては珍しく垂直を指向する建造物だった。人がすれ違うのがやっとなくらいのらせん階段を登れば各階を時代ごとに区分して狭いガラスケースが円形のスペースに詰め込まれている。製造されてより百年を超過する人形も相当数あり、保護の観点から外光が直接に当たることを最大限に避けており、人工の照明でも極限にまで抑えられている。だから観覧者はガラス面にほとんど鼻の先を押し付けるくらいにまで近づかなければ人形たちの髪の毛、陶器によって表現された肌の美しさ(そこには人の手によって丹念に磨かれた膨大な時間が潜んでいる)、ガラスの目の精巧さ、パトロンたる貴族たちの贅を尽くした洋服のレースを確認することができない。
 まだ背の低かった要もまた大人たちの行列に混じりながらガラスの縁に手をかけて背伸びをしてはひな壇に座る小さな人形たちの姿を目に焼き付けた。一階かららせん階段をたどっていき、三階にたどり着いたとき、、要の眼は一人の──そう言って良かった──ブロンドのお下げに水色の鮮やかなワンピースを着た少女の姿に釘付けになった。暗い中にあってもつややかな、しかし血色の良い健康さからは程遠い透き通るような白い肌、今にも憂いの涙を滴らさんとする眼球、一方で決して開かれることはないであろう小さな口元にはほんの少し笑みの兆しが宿っている。それらを一つの表情として読み解くことは、名付けることは要の年齢では早過ぎる課題かもしれなかった。もしかすると、その顔の小さな面積の中にかほどに様々な要素を敷き詰めたことは人形製作者の技量の不足なのか、あるいはむしろ熟練者の「へたうま」に属するものなのかもしれない。要の小さな本能が「彼女」をこの山奥の孤城から連れ出したいと、まるで遅れてきた初恋のような衝撃を彼の胸中に波立たせた。要はしばらくその場を離れることが出来ず、ずっと上階の展示室まで見終わってしまった両親が探しに戻ってくるまで立ち尽くしていた。
 もっとも、こうしたエピソードは要にとって今となっては幼年期の根雪のような記憶に過ぎず、玩具メーカーの、それも女児向けの着せ替え人形を打って歩く仕事についたのは、むしろこの業界の海外進出の遅れ、他資本提携の度合いの低さに、かえって将来発展の可能性があるという学生らしい見込みに基づいた、熱心な就職活動の結果の、そのまた結果に過ぎない。彼は入社してから最初の五年間を、今テレビ会議の画面の向こう側──壬生第二工場の経理課で過ごし、その後本社の営業部に移って三年が経つ。言い換えるならば、彼は今、この会議室において、この「フィギュア・トイ」部門において製造現場、原価、販売の実態に最も通ずる人間として招かれている。
「端的に言って、もっと売れないんですか? そりゃあクリスマスだのなんだの、季節段差はあるにしても、今月もまた右肩下がりじゃないですか!」
 スピーカーが割れんばかりの声を伝えてくる。
「二枚目の資料よく見てください、一家庭あたりの普及率は決して下がってはいません。これは構造的な問題なんです。製造側の論理だけで在庫を大量に抱えることなったら、誰も幸せにならないですよ。後に借金を残すだけです」
 営業部の生産調整担当がすかさず言い返す。
「だったら! なんで少しでもロットを集める努力をしないんですか! 輸出向けの話はどうなったの? 変なテレビゲーム作って遊んでばっかりいて、本気で仕事しているのか! 椎名! そこにいるならなんとか言ったらどうなんだ!」
 浅野工場長が机を叩く音まで響いてきて、椎名はようやくとじていた眼を開き薄暗い人形の館から外光を何ら遮るもののない吹きさらしの荒野に戻る。椅子を元の位置に戻してカメラの視界に入ると、最近プレスリリースされたスマートホン向けの新規事業について、教科書的な返答を──それは既に彼にとっては何度目のことかわからない──マイクに向かって繰り返す。
「今や小学生だって、あるいはその親御さんの世代にとってもインターネットやスマートホンの存在というのは無視できません。ましてや、人形遊びをさせるくらいの文化的水準や所得レベルのある家庭においてはなおさらです。こうした情報技術の高度化は、我々玩具事業においても所与の条件として戦略的に取り組んでいく必要があります。プレスリリースにもあるようにこのオンラインコミュニティである『すみれちゃん・キャッスル・パラダイス』を活用して『すみれちゃん人形』の販路拡大になれば、工場長がお持ちの危惧は早晩、解消されると営業部では信じて疑っていません。以上です」
 そこまで説明したときにはテレビ会議のシステムが予約時間の終了一分前を告げるビープ音を発し始めていた。
「全く椎名もすっかり本社様の人間になっちまったな。とにかく、早急の効果発揮を数字で示してもらわないと、こっちは生産計画もまともに組めないんだから、わかってるな!」
「わかりました。今日はすみませんが、このへんで。また発注情報の第二版は送ります」
 要はそう言い切ってリモコンのオフボタンを押す。テレビ画面が暗くなり、東京本社の出席メンバーは一同に声にならないため息を胸の奥底から漏らした。
 ここ日本で、女児向けの着せ替え人形の定番と言えば玩具業界最大手の宝島カンパニーによるカリンちゃん人形であり、一九六六年の発売以来世代を超えて愛され続けている。一方で要がその籍を置く住吉トイズは、元々は住吉財閥系のプラスチック成形メーカーから枝分かれした中小玩具メーカーで、あくまでも玩具を企画する会社からの発注に応じて製造を行う受託生産をその源としている。それが、一九八〇年に独自企画で発売した「すみれちゃん人形」がじわじわと人気を上げていった。後発参入ながらも、メーカーとしての技術力が幸いし、子供向けだからといって妥協しないモノ造りの姿勢が、子供向けだからこそより良い品質のものを与えたいという層に評価されて発売十年を経た一九九三年にはカリンちゃん人形と肩を並べるほどの出荷数を誇るに至った──というのが、要が入社したときに住吉トイズの輝かしい軌跡として人事部から何度も聞かされた「社史」である。そしてこの物語が既に二〇年も前の一九九三年で一旦の区切りをつけなければならないことを、社員たちは様々な思いで受け止めていた。大抵は「その後の展開は皆さんも御存知のとおりですが」というクリーシェが、いささか自虐的な調子で、その場に居合わせた人間たちの微苦笑を誘うことになるのではあるが。
「そうは言ってもこれ以上の下方修正はさすがに経営企画もなにか言って来るんじゃないか? 流通に在庫持たせ続けるのも、今回はさすがに限界だよ、在庫率、見ただろ?」
 会議室から出て喫煙ルームへと足を向けながら、同席していたマーケティング部に所属している同期の富田直樹が要に言う。
「それを黙らせるのがお前らの分厚い『調査結果』とやらじゃないのか?」
 午後三時という時間帯ともあってか、一服タバコを吸いにくる社員たちで喫煙室は紫煙と野太い笑い声で既にいっぱいだった。ここ茅場町の本社十一階は国内事業部がフロアを占めているので特に他部門に聞かれて困る話も無いせいか、自然に本音が大きな声で漏らされる。メーカーの喫煙ルームといえば、そういう場所であると相場が決まっている。
 一方で要は値上げを機会にタバコをやめてずいぶんと経つのだが、直樹の一本に付き合うべく缶コーヒーを自販機で買うと、窓際のハイテーブルに二人くらい立っていられる隙間を見つけて、そちらへ歩いて行った。
 そこへちょうど、男児用玩具の花形であるカードゲーム事業部に属するち、要たちよりは二つ年次が上の岡林清一の姿も目に入った。彼もまた壬生第二工場の経理課出身であり、入社したばかりの要に電卓の叩き方から財務諸表の読み方まで叩き込んだ張本人である。
 どうも、と軽く会釈して要が近づいていくと、清一は開口一番に要が最も恐れていた言葉──同時にそれは答えが出ることを最も待ち望まれていた内容ではあるのだが──を放った。
「あのスマホのポータルサイトの件な、社長が結局頭を縦に振らなかったそうや。いま、十三階の様子見てきたけどな、えらい騒ぎになっとったで」
 努めて冷静さを装いつつ、缶コーヒーのタブを上げて一口飲んでから要は、ようやく耳から入ってきたその言葉の意味するところが頭の中に染み渡っていくのを感じる。鈍痛に似た波が押し寄せてくる。それは、これまで何百時間と費やしたか知れない関連部署との調整と、記載する説明書きの一字一句、あらゆる試算前提を微に入り細を穿って幾度と無くやり直したIRR計算と、そして製造部門に対してこれこそが販売促進の最後の切札であり、うまくいったあかつきには各工場の高稼働率は百パーセント保証すると大見栄を張ったすべてが水泡に帰するということではあるのだが、この身が受け止めるには、少しばかり時間が欲しいというのが要の、要の身体の、正直な反応である。
「プレス・リリースはどうするんですかね?」
 要と違って業務上さほどこの件で利害関係の範囲が広くない富田直樹が、既に短くなっている一本目の吸殻を灰皿に押し付けながら横から口を挟む。要が先の会議で言及した「すみれちゃん・キャッスル・パラダイス」だけでなく、岡林清一たちが売り出しているカードゲームのオンライン化をメイン・コンテンツとして計画されつつあった住吉トイズのスマートホン向けオンラインゲームのポータルサイトは、末端社員が誰一人その内容を知らされていない状況の中、半年前に突然会社のホームページを通じてその開設が予告された。社員たちにとっては、青天の霹靂とはこのことだった。しかしもっとも驚いたのはこの計画が、ほとんどなんの中身もないままにリリースされたことが徐々に明らかになっていってからのことだった。
 玩具業界の中でも自前で企画・製造していることを誇りとしている住吉トイズにとっては、ポータルサイトはほとんど新規事業の立ち上げを宣言するものと言ってもよいくらいで、早速社内に柔構造の検討チームが設立された──「らしい」。このチーム自体が副社長をチーム長とする機密性の高いもので、実質的には要たちにとってはお偉いさんが今日もどこかで議論を戦わせているくらいの認識でしかなかったのだ。
 事態が急変したのは、二ヶ月前、ちょうど新年度が始まったばかりの頃、全営業部長に対し、件のオンラインゲームの営業上のメリットについて各部最低でも五億円ずつ積み上げるよう指示が降りてからだ。同時に、オンライン上に展開するソーシャルゲームの内容についての検討も、社内の若手社員を相当に起用した分科会が設けられて検討が開始された。同じ室の金田マネジャーから、要はガール・ドールズ部門におけるその分科会を仕切る立場に任命された。
 金田は部長から降りてきた事務局作成になる検討スケジュールを見て、その五秒後には次のように言い放っていた。
「結局ガチガチ頭のおじさん連中では何も決められなくて、コンサルから開発費用だけ提示されるとあわてふためいて現場に仕事を丸投げってわけだ。モノ造りだかなんだか知らねえが、変なプライドで自前の開発にこだわって、ひよっこ集めてパソコンぱちぱちやったって今更手遅れだよ」
 言い放っただけでなく、鋼製机の引き出しを固い革靴の先でガツンと蹴り飛ばしていた。
「おいっ、椎名! 明日からお前が開発部長だ!」
 ……という顛末である。
 プレスリリースでは「検討を開始」という曖昧な表現が使われており、さはさりながら株価もその一瞬は多少持ち直したことから、もう後には引けない状態に陥っていた。いつまで経ってもリリース情報が出ないことから、東証に副社長が呼び出しを食らったという、およそ信じがたいうわさも聞こえていた。それに類することは実際に、あったからこそ本当に「検討」を始めたのかも知れない。
 とにかく火がついたように事務局からの便益試算要請と激しい「もっと、もっと」という積み上げの圧力が毎週のように続き、いつの間にかこのプロジェクトで便益が出なければ責任はすべて営業部門にありという雰囲気が何の根拠もなく周知のものとなっていった。
「まあ、多少子どもたちの夢を壊すことにはなるかも知れないけど、名誉の撤退として傷が浅いうちにさっさとゲロっちまうほうがよっぽどええな」
 清一はそう皮肉っぽく言いながらも顔は少しも笑っていない。カードゲーム事業はしょせん絵と文字が印刷された紙切れを売っているに過ぎない。そのペラペラのボール紙にどれだけの幻想を乗せられるかが彼らの仕事であり力量だ。多彩なグラフィック、男児の好むモチーフの導入、複雑すぎずしかし大人でも夢中になれるルールの設定……それらがひとつの世界観を構築したとき、彼らが売り歩いているものはカード以上のもっと別の何かに変貌する。
 しかし今回のオンライン化をカード事業部は、その紙に高度な技術を駆使して色鮮やかなオフセット印刷を施すことさえ必要なくなる好機と受け止めた。受け止めるしかなかった。社内の他部門が右往左往する中で、いち早くコストダウンと新たな収益源泉の確立を両立するプランを打ち出した彼らは、このプロジェクトにおける最右派と言って良かった。
「しかし、うちのガキンチョだってもういっちょまえにパソコンのキーボード叩けるっていうのに、こんな時代に検索しても出てこないもんなんて存在しないも同義やで。この投資に踏み切れなかったら、一体この会社、何でこの先もうけていくつもりなんや?」
 清一の言葉を聞いてか聞かぬか、一瞬、喫煙ルームが静まり返る。だが、その静けさに気がつくより先に当の本人は盛大なため息をつきながら部屋を出いった。要もまた、残り少ない缶コーヒーを飲み干し次なる会議の部屋へ行かなければならない時間だった。


【小説】書き損じ集(定例エントリー!)

 結婚式の二次会というのはいいものだ。
 学生時代の懐かしい仲間に招待状をもらえば、いそいそと会場の扉を開くまでの時間が待ち遠しい。普段は履かないストレートチップをアスファルトに靴音響かせながらレストランに入れば、ノースリーブなんか絶対に着なかった後輩の女の子がすっかり髪の毛を整えてドレスアップして受付に立っているだろう。名前を告げれば、最初は聞きなれない言葉を初めて受け取った子供のようにきょとんとされる。彼女は慌てて手元にある名簿を鉛筆の先で上からなぞっていく。そっと自分の名前が書かれてある列を指差すと、その指先に彼女は目を止めて、もう一度こちらに顔を向ける。やがてさざ波のように彼女の表情に変化が訪れる。
「ああ先輩ですか! ぜんぜん変わらないですね!」
 と、褒めているのか褒めていないのかよくわからない言葉。いま、ぜんぜん誰か分かっていなかったじゃないか、と苦笑気味。すぐに気がつくことができかった自分の落ち度をそうやってごまかしているのかも知れない。そういう照れ隠しもまた良い。そして二人の間には既にある一つの黙契が復活している。「生意気な後輩と口うるさい先輩」という関係を許しあうという。だから「そういうカッコすると女の子だなあ」という軽口を、会費のために用意した真新しい千円札を数えながら安心して口に出すことができる。
「何年ぶりくらいですか? 卒業式の時に飲みましたよね」
「そうそう。あれは史上最長の飲み会だったな」
 二言三言、言葉を交わすだけで、その言葉の響きや投げかける勢いで、氷は一瞬にして溶ける。
「まだ大学院にいるんだったっけ?」
「そうです、毎日実験の準備で大変ですよ」
 そういう一連の距離感の回復過程が、楽しい。新しい自分を見せつけ合う気負いなんて無くて、むしろこの五年間の間に自分が幾許かでも成長し、知らないものを色々と知った気になっていたことに恥ずかしさを覚える。「そうなんだ、君の言うとおり、全然変わっていない」などと後で日記帳に詩でも書きたくなるくらいだ。
「それじゃあ、また後で」
 会費を支払うと、にっこりと笑う相手に同じ温度の笑顔を向けてしばしの暇乞いをすれば、パーティー会場へ続く通路を辿っていく。足元は青いライトが、その色に似合わぬ柔らかさで絨毯を照らしている。足音を目立たせぬように敷かれた生地の肉厚さが、革靴の裏からも感じられる。
 狭い通路を抜ければ、会場の扉を前に明かりを抑えた待合室に出る。既に午後から始まった披露宴を済ませてきたのであろう、赤ら顔の男女がひしめいている。ちょっとした集合写真を撮りあったり、タバコ仲間を募って外に出ていったり、最近手にしたばかりの自分の名刺を配り歩いたり。
 部屋の隅では小さなバーカウンターで食前酒を供している。会の始まりにはまだ早い時刻だったが人々のおしゃべりをしたい欲求は、アルコールの力を得て既に頂点へ上り詰める勢いをふんだんに見せ始めるタイミングだ。この時間のためだけにカウンターに立つバーテンダーも、グラスを拭っては次の飲み物を作り続ける忙しさに興奮を隠しきれない。
「二次会とはいえこれだけの規模の開催は久しぶりです。いつもはこの会場も壁で半分に仕切って裏側には使っていないテーブルや椅子を積んでおくのですけれど、今日は全面、楽屋無しです。扉が開いたらその広さに驚きますよ」
 長い髪の毛を後ろに撫で付けたにこやかな男は、ゆっくりとグラスにシャンパンを注ぎ入れる。
 グラスを手にして振り返ると知った顔がいないか検分を始める。真っ白なポケットチーフが光るスーツ姿の男たちや色とりどりのカクテルドレスに身を包む女たちの中で、いつも会社に来ていくスーツと大して変わらないデザインの礼服をなんとかごまかして着てきていたせいか心なしか気が引けてしまう。もしかしたらとても場違いな出席者になってしまっていたか? 招かれざる客だったか? けれど「おい!」と、背中を叩かれて振り返れば、さっきの立派なスーツ姿の男の破顔一笑。よく見れば知っている顔の知らない顔。知らない顔の知っている顔。「変わらないな」と言い合う。さっきの受付で演じてみせた静かな再会のように、ここでもまたひとつの氷塊が一瞬にして溶ける。バーテンダーはその再会を祝するかのようにゆっくりとシェーカーの音をひびかせる。
 そういうのが、この物語の主人公である椎名要のよく知っている結婚式の二次会というものだった。だからその日、どうして呼ばれたのかもわからない二次会に出席するべく礼服の袖を通したとき、嫌な予感しか彼にはしていなかった。

     ◯

 勤めていた会社が去年の九月、業界最大手に飲み込まれた。大学を卒業した椎名がその中堅電子部品メーカーに入社して八年目の出来事だった。建前上、敵対的買収ではなかったので「雇用は確保する」と書かれた紙ペラがご大層にも各人に配布された。
「そうは言っても、いつまでも本社にいられるわけでもないんだろうから、さっさとどこか子会社にでも出向して閑職で定年を迎えたいもんだね」
 などと強がりを言いながら月島の古びた本社ビルを引き払って、十月一日から東京は丸の内の敵陣へ通い始めることになった。
 するともう初日からやれ若手飲み会だの同大学出身者の集いだの営業部門合同親睦会(題して「昨日の敵は今日の友」!)だのへの案内が、設定したばかりの新しいメールアドレスに次々と放り込まれてくる。この経営統合の金銭的な効果を少しでも早く回収しようと、夜な夜な互いの情報を開示すべく様々な階層でコンタクトか繰り広げられているらしかった。
 けれど椎名は中でも「同期会」という言葉に対して最初、全くの思い違いをしていた。曰く、◯月×日二〇〇五年入社の仲間で集まってワイワイ騒ぎましょう! 開催場所は丸の内△△カフェを貸し切ります! 仕事が終わってから、あるいは仕事をちょっと抜けだして顔を出しませんか? 前向きのお返事よろしくお願いします!
「いやいやいや、前の会社の仲間だけで集まって愚痴り合うだけなんだから、こんな、会社のすぐ近くでやらないほうがいいんじゃないの? どこで誰が聞いているかわからないよ」
 けれど「同期」というのが旧両社の二〇〇五年入社の人間すべてを含めているということをこっそりと教えられて、その感覚の新しさになんの誇張もなく驚きを感じた。そして次の瞬間には、そういう感情をとっくにやり過ごしたのか社内融合に駆り出されることに喜びすら感じ始めた一部の人間に対してまた別の驚きを感じるのだった。
 ついこの間まで「東京駅で××社の若い連中が集団でいるところ見たんだけどさ、なんかみんなで白いワイシャツに黒いスーツ着てダサいんだよ。あんなヤツらに負けないでこっちの色に染めちゃおうぜ!」と強がりを言っていたその口から「いやあ、××社ってそれはもうお固いヤツらの集団かと思っていたんですけど全然そんなこと無いんですね!」とよくわからない敬語が浮き浮きと飛び出してビール瓶を傾けている。あるいは会が果てたあとに「この前、経営企画部の若いヤツらと飲んだんだけどさ、考えていることが全然違うよ。長いものに巻かれる主義の俺達と違ってさ、やっぱり業界を引っ張って行くからには見ている世界が広いし、来期の予算がどうとかじゃなくてちゃんと長期的な視点で企画をしようというマインドがあるよ」などと、まるで重大な秘密を打ち明けるかのように耳打ちしてくる。
 椎名にとってはそういう光景を見たり聞いたりするのが辛かった。なぜならそういう場に居合わせたらいつもより断然甲高い声を張り上げておべんちゃらを言って回り、ついこの前まで信じていた常識が覆されるのを目の当たりにしては「今までのやり方が完全に間違っていたのだ」と思考停止して簡単に寝返り、飲み会のあった翌日には朝八時から「偉い人」をエレベーターホールで待ち伏せては「昨夜はごちそうになり大変ありがとうございました!」と大きな小声でささやいてしまうのが、他でもなく自分であると自覚する程度には自分の性格を把握できていたから。
「もう戦いに決着はついているんだからさ」
 あるいは、新しい環境に馴染もうとする疲れがたまってきた十二月のある木曜日のお昼時。
「お前はまた理屈ばっかりこねあげて侵略者側の論理だとか歴史修正主義には与しないだとか、コムズカシイことを頭の中でこねくり回しているのかもしれないけどさ、軍事用語でヒロイズムに仕立てるのは良くない傾向だよ。お涙頂戴の爆弾三勇士じゃないんだよ、俺達は」
 と、自称リベラルな別の同期、岸田がわざわざ昼飯をおごってやるという小芝居まで打って椎名に忠告してくれる。
「田中先輩が言っていたよ。最初から張り合うのがおこがましいんだって。俺達は負けたんだ、ただ、負けたんだ。一回死んだと思わなきゃ。もう十年も前に増資をしてもらっているんだ。決着はとうについていたんだよ。それを今更、やれ株式の交換比率が侮辱的だの、役員の数が少なすぎるだの、福利厚生の撤廃反対だの言ったってしょうがないんだよ」
 真昼間からビールでも頼みそうな勢いの岸田の放言を聞きながら、椎名はなんと言って良いのかわからない。こいつはわざわざこのクソ忙しいさなかに人を呼びつけておいて、自分の話を聞いてもらいたいだけなのか。そもそもそんなことを無神経にやってしまうような人間だっただか?
「販売規模、技術先進性、政治への発言力、どれをとっても相手方のほうが一枚も二枚も上手なんだ」
「じゃあ、上手投げでもかましますか」
「は?」
 お昼時の丸の内界隈は、短い休憩時間を少しでも有効活用しようと財布を握りしめた勤め人たちでごった返している。少しでも安くお腹にたまり、午後も頑張って仕事が出来るように、少ライス付きの肉味噌ラーメンだとか、大盛りピクルスと激辛のカレーライスのセットだとか、鶏の唐揚げ食べ放題だとか、そういうものを求めて地下のレストラン街に行列を作る。
 けれど岸田は新丸ビルの一食三千円もするランチを前にして、サラリーマンとしての土地勘をまだ養いきれていない自分自身の不甲斐なさと、その不甲斐ない自分の口から出る強い言葉、それも深い諦めを一生懸命隠そうと刺々しさで装った言葉とのギャップを自覚しないのだろうか?
「だからさ、頭で勝てないなら残業でも何でも死ぬくらいやってさ、さすが△△社出身のヤツらは体力勝負でのし上がってきたんだなっていうところ見せてやればいいじゃんか。そもそも勝った負けたで美談にして、滅びの美学みたいなものにひたりたがっているのは岸田の方じゃないのか?」
 と、椎名は啖呵を切る。言いながらももちろん岸田の本音は充分すぎるほど分かっていたから、それ以上責め立てるような真似はしなかった。そんなことをすれば、自分自身を傷つけることになる。会話はそれ以上展開することを放棄する。そして二人は腕時計を気にしながら次々と運ばれてくる肉料理や魚料理をせっせと口の中に運んだ。
 けれど合併存続会社側の人間が、絵に書いたような帝国主義者の集団であったならば物事はもっとシンプルだし、椎名も岸田ももっと心置きなく呪詛を吐くことができただろう。二人の歯切れの悪さは、結局のところ完全な正義が自分たちにだけあるわけでもないことを敏感に察知していることに端を発する。だからまだ入社三年目の林次郎が次なるメールを、一体どういう人選によって至ったのかわからないくらいたくさんの「仲間」たちに送ったことと、その結果幾許かの人間が心に立たせられたさざ波について、百パーセント彼の咎とするわけにはいかない。
「業務外で恐縮ですが、ご報告とご案内で御座います! この度、四月に結婚することになりまして、下記の通り二次会を行う予定としております。日頃お世話になっている皆様には是非ご参加頂ければ幸甚です! お忙しい中とは存じますが、ご検討宜しくお願い致します。個人的にはこの会を機に旧会社双方、色々な方と交流いただき、統合新会社としての一体感をより強固なものとしていきたいと考えております」
 椎名はこの手の素直さに対して常に警戒心を払ってきていたが、まさか二次会とはいえ自分の結婚式を会社の発展の場として供するメンタリティについて理解が追いつかなかった。
「あれ、上司にああ書けって言われてんのかなあ」
 以来顔を合わせる機会を失った岸田に向かって言うつもりでふと言葉を漏らす、タバコの煙を吐き出すように。毎週のように配船会議で顔を合わせていたのに、年があらたまってから岸田の代わりにもっと若い男の子が出てくるようになった。その彼はなかの他意もなく「このコンテナ船は十九日岸着必須です。商社ともちゃんと調整してください。無理ならモノは出ません」と、淡々と事実の固まりを投げつけてくる。彼はなにも考えてくれない。それは彼の仕事ではなく、椎名の仕事だからだ。職制表にちゃんとそう書いてある。
 既に午後九時を回っているが、オフィスの明かりは煌々と輝き、あちこちでパソコンのキーボードを熱心にたたき続ける音がこだましている。メールの送り主である林くんもこちらに背中を向けてパソコンに向かっているが、隣に座っている上司が時々「まだか、まだか」と言いながら林くんの椅子を蹴っている。同じ事業部で隣の営業部だというのに、一体なにをあんなに必至にやっているのか椎名には未だによくわからない。
 そもそも椎名は林と口を聞いたことがほとんどない。直接的な仕事の関わりがないので、コピー機に並んだ時に「元気?」くらい声を掛けるのが関の山だ。それすら初めのうちは妙な気がした。年次が上というだけて馴れ馴れしてく接してくる変な人と思われたくないと、妙なプライドの高さが椎名を尻込みさせる。新しい環境ではどこへ行っても、誰に対してもアウェー感が拭えないものだ。だからそんな椎名に声をかけてきてくれた以上は、それほど親しい付き合いではないということが出席を拒む理由として有効でなくなってしまう。椎名は考え込む。「他のみんなはどうするのだろう?」と思ってみたところで「他のみんな」も林と同程度の付き合いしかない。そのメールの宛先に並ぶ名前を見たところで「どうする? 行く?」などと気軽に話しかけられそうな人間が見つからなかった。
「まあでも、かわいい女の子もたくさん来るだろうし!」
 二十代の残滓を残すそれっぽい本音らしさ(それをこそ建前というのだが!)を思考停止後コンマ二秒でひねり出して自らの胸に投げつける。とにかく、あらゆる機会を捉えて新しい現場感覚を磨かなければならない。新しい常識のあり方に従わなければならい。自分の臆病さに鞭を打つようにして椎名は「ご検討」の結果をメールの返信欄にキーボードで打ち込んでいく。
「ご結婚おめでとうございます。また、丁寧なお誘いどうもありがとうございます。普段の業務を通じてはなかなかお話しする機会もございませんでしたが、これを機に仲良くさせていただきたく存じます。是非とも出席させていただきます。あと、仕事はそこそこ適当にやっつけて手を抜けるところは抜いてしまっていいと思います」

     ◯

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【小説】書き損じ冒頭集

 フラグメンツ・硝子・グラス、のように、(あるいはこういった言い方が許されるのであれば)のような光。
 芥川龍之介の顰に習って、けれどぼくの硝子は磨耗している。人を傷つけることもなければ、(その技術によって)自らを満足させることもない。けれど、幾多の遊びに付き合わされて無数の傷を負ったビー玉の、手沢を帯びた輝きの美しさを歌ったのは詩人ではなかった。
 

    ◯

 ぼくはただただ、新しい物語を書きたかったのだ。書きたかったのです。その「新しい」というのは、いつまでもぼく自身がぼく自身を振り返りながら、つまり後ろ向きに前へ進むなんて形容をしながらも、さてその「前」というのが厳密にはどちらの方向を差すのか結局わからないままに、そのままに、その勢いだけでこうして文字を打ち込んでいく営為を、とにかく辞めてしまいたかった。けれどいくなり太宰治の成り切って「小説を書く小説」なんてモノし始めても、誰も読みはしないだろうし、そもそもぼくはそんなモノに「新しさ」を感じないのだ。
 たぶん、この文章を読むあなたはこの文章がこうしてノートパソコンの前に座る一人の男がせこせことキーボードを打って生成されているということにまで想像力は働かないかもしれない。もちろんそれでいいのだ。小説というものは、作為を感じさせたところで失敗する。だから、やっぱりこのドキュメントをもし小説と呼ぶのであれば、やはり小説を書く小説と言わざるをえないかもしれない。よろしい。このくらいで切り上げよう。

    ◯

 いや、うん、これでいいんだよ、と洋平が言う時は決まってよくないに決まっている。左斜め上を見ながらコーヒーカップを前歯にぶつけている彼の様子を見ていれば、そんな大層な法則にしなくたって誰でも勘付くに違いない。私たちは大抵のことは合意の上で物事を進めてきたのだけれど、この結婚についてだけは意見が違うようだった。目の前に広げられた婚姻届を前にしてなおも私たちは合意に至っていない。この結婚というのは、私たちの結婚のことではない。議論の焦点は、証人欄に私たちが署名していいものかどうかだった。
「よくないでしょ。いくらなんでもあの二人が結婚するのを私が『はいそうですか』って容認するとでも思った? こんなこと頼んでくる方もオカシイけど、どうして洋平までほいほいと引き受けてこんな紙もらってきちゃったのよ?」
 チェーンのファミリーレストランとはいえ、少し目立つくらいに声を張り上げて私は言ってやった。
「悪趣味」
 本当にそう思う。こういうことを平気でやる人間なのだ。

    ◯

 空から音符が降ってくる、という言い方は滑稽だと思った。でもあいつはそういう表現をした。ガラスで出来たピラミッドが逆さまに転んで、それを下から見上げていると、空から下りてくる雪は静かに音楽を奏でているようも見えなくはなかった。私は幸せで胸が潰れそうで、その圧力をあいつの手にぎゅっと伝えるしかなかった。それが三年前の話だ。
 三年の間に私は厳しい冬景色しか知らなかった故郷を離れ、

    ◯

 小説を書くのなんて簡単だ。誰も書いたことのないことを書けばいい。誰の真似もせず、誰も書いたことのないスタイルで書けばいい。だから次の一行を書くにあたっては何も参照せず、誰も見たことも聞いたことのない文字の組み合わせによって物語を構築していく。あらゆるクリシェ、あらゆる予定調和を排除していく必要がある││といったことが、既に一つのパターナリズムであることを、ジレンマなどと仰々しい単語で表現すること、そのことがまさにクリシェなのだ。
「だから、もうぼくたちに書かれるべく残されたものは何も無いんです」
「いや、その『だから』の使い方はオカシイだろ」

    ◯

 「写真はイメージです」というのが同語反復にしか思えなのだけれど、日本語で言うところの「写真」にはやはり「真実を写したもの」という漢字に引っ張られたこのテーションが色濃いのかもしれない。だから例えばワサビ味のお菓子のパッケージに「本物」のワサビの写真が写っていたらそれはあくまでも「ワサビ味」を代弁する「偽物」であって、決してワサビそのものがパックされているわけではない。だからこの場合の「イメージ」という言葉には「偽物」の臭いがする。臭いをさせているというべきか。

     ◯

 角に出来た新しいカレー屋の二階に住んでいると男は自己紹介した。俺の部屋に一度でも来てごらんよ、いくらなんでもひどいよ、いくらのカレー好きでもカレーが嫌いになっちゃうよ。たしかに彼の髪の毛、着ているティーシャツ、あるいはスニーカーの先にいたるまで、カレーの臭いをただよわせている。私はそのカレー屋の前で交通事故にあった。カレーのいい匂いにつられて自転車をこぎながら目をつぶって鼻から息を吸い込んだのがいけなかった。次の瞬間にがんと頭を打たれたような衝撃が走って、視界は真っ暗になった。少しだけアスファルトの地面が視界の端に変な角度に写って、自分の腕が血に染まるのを体温で感じた。知ってる? 身体から血が沢山流れだすとものすごい寒気を感じるんだ。でも打ったところはじんじんと痛くて、痛くて熱い感じがした。ああ、身体が悲鳴をあげるってこんなイメージなのかなって……思ったときにはもう何も感じなくなっていたと思う。意識がシャットダウンされて、そういうのって本能なのかな、耐えられないくらいの痛みに対する。

     ◯

 友だちにもらった万年筆は置いてきてしまった。

     ◯

 東京の方角に向かって兎を放った。たぶん、東だからあっていると思う。自信はないけれど。それはささやかながら汐音ちゃんに対するプレゼントのつもりだったんだけど、もちろんそんなことしたって伝わらないような、伝わるわけ無いよなあ、そあだよなあ、と考えていたらちょっと淋しくなってわざと泣きたいような気分になった。もちろんぼくは女優じゃないからそんなことはできない。

     ◯

 町で唯一の墓地の向こうに高圧電線を渡す鉄塔が建ったとき、私のお父さんはずいぶん驚いたらしい。驚いて、けっこう反対運動にそのあとズルズルと身を投じてしまったらしい。できてしまったものに反対したってしょうがないのだけど、たまに来る電力会社の人とか、県庁の人とかに対してなにか長い手紙のようなものを渡す程度だったらしい。でも、それだけでも、狭い私たちの世界の中では充分に目立つ出来事だったらしい。
 次に、風力発電の大きなプロペラが立ち上がった。何も無い雪原の向こうに、鉄塔のすぐ横と少し離れた場所にもう一つ。朝起きたらいつの間にか景色が変わっていたから私は驚いたのだ。そして間もなく私たちの学校に新しく体育館が建つという噂が流れてきた。私は学校帰りによく田んぼの真中に立ち止まって、鉄塔と風車とを眺めてはその風景に自分をなじませる努力のようなものをした。それはただ、ひたすら立ち止まって眺めるということでしかなかったのだけれど。
 細かい雪が道路の先の先の先まで待っていて、上も下も分からなくなったのだけれど、ただ引き続く道路だけがぼくたちに北の方角を指し示してくれる。ガソリンはもう少しで切れそうだ。だけど行けども行けども明かりが見えてこない。ぼくたちは走り続けるしかなかった、力尽きるまで、ただひたすら。

     ◯

 以前勤めていた会社の近くをたまたま通りかかったとき、あまりにも寂れていて驚いた。その会社はそこそこ大きくて潰れたときは新聞の一面にも載るくらいだったのだけれど、そのあと新しいテナントは入らなかったようだ。見上げると、蛍光灯は光っていなくて、代わりにバラバラになった書類だとか壊れた椅子の背だとかが覗く。一瞬、世界がモノクロになったような気がした。赤も青も黒くなって、黄色もピンクも白になった。あの時、毎朝毎朝いやだなあと思いながらも有楽町線に乗って通っていた。大抵の人は同じようなことを考えながらそれぞれの通勤路を往復していただろう。それがある日を境に何にも無くなってしまった。場所はあるのに、人はいない。あそこにあったのはやっぱり、あの一瞬集まっていた人たちのつながりだったんだよなあ、とぼくは思う。まあ、今さらそんなことを思ってこたところで何も始まらないのだけれど。

     ◯

 でかいトートバッグを肩に担いで、青山通りの気取った本屋で立ち読みというかそれは写真集だったからほとんど座り見だったんだけど、そういうことをしていたら「あなた、その本に興味が有るんですか」っていきなり声をかけられて振り向いたら店員なのかと思ったけどどうもそんな感じもしない(名札とかエプロンとかしていない)から自分がかけられた言葉よりもまずこの状況がよくわからなくて、私は相手の、まあ私と同じくらいの年格好の男の顔をまじまじと眺めてしまった。このつまらない物語はこういういくぶんスタイリッシュとは言えない状況から語れ起こさなければならないことに私は実は憤りを覚えている。ムカついている。

     ◯

 うん、わかる、わかるよって言っても君は多分分かってくれないんだろうな。でもなんで未婚の君が左手の薬指に指輪をしているのかって聞いたら私は左利きだからっていうの説明もどうかと思うよ、みんなそこまで君のこと知らないよって言ってもまあ指輪してるってことは君のことをもっと知っている誰かがさ、ぼくの他にいるってことだからまあ関係ないといえばそれまでなんだ。でも、眼の前でそうやってドムドムバーガーの大して美味しくはない薄いジンジャエールを飲みながら、ぼくがいつか青山のゴシック系のメゾンで買ってあげたジャケットを羽織っている姿を見てしまうとさ、時間がどれくらい経ったかなんてどうでも良くなってしまうんだ。あっ、それはぼくだけ? もちろん。でも君は飲み終わった紙コップをベンチの上に置く。ジャケットを脱ぐと、柔らかなシャツの下の膨らみが白い光線のもとにあらわになる。あるいは、そのくぼみに挑発する高低差を思い知らせるかのような暗い影が載る。ああ、わかるかな。わからないかな。うん、わかってほしいんだよな。

     ◯

 波を、フレームに入れる。

     ◯

 彼女はけっこういいセダンに乗っていた。ふだんからあまりヒールを履かない女の子だった。だから恭子の結婚式の時にも、さっそうと地下の駐車場からエレベーターに乗って登ってくると「どこか着替える場所はないの?」と、眠たそうな目で受付の手伝いをしているぼくのところへやってきてそう言うのだった。

     ◯

 テレビを捨てていくなんて、信じられない。今時、しかも、私の部屋の前に。朝会社に出かけるとき、扉を開けたらガンというものすごい音がして扉の外側がその異物と衝突した。そいつはよくおばあちゃんの家なんかで現役で活躍しているガチャガチャとつまみを回してチャンネルを合わせるやつだ。赤いプラスチックで周りをおおわれていて、私ははいている今日おろしたての赤いスカートの色とあんまりにもそっくりだったからいっそのこと着替えて出直そうかと思ったくらいだ。

     ◯

 そういえばあったね、そんなこと。どこだったっけ? すごい、屋上じゃなくて……ビルの展望台みたいなところで。分厚いガラスの下に新宿から渋谷までずーっと見渡せた。いい天気で、いい天気過ぎてこっそりかばんの中に忍ばせていたハイネケンをさ、窓際に腰掛けて外を眺めながら二人で飲んだんだよね。私、あの時ちょうど……前の彼と別れたばっかりで、君とは良い距離を保ちたかったんだよ。急にそういうのとかって、まあ一応私だった女だからさ。うん、おぼえているよ。いつだったかは忘れたけれど……。

     ◯

 冬だから、窓際でコーヒーを飲もう。さっきマーク・ジェイコブスで買ったお気に入りのワンピースは、白くて大きな袋の中で新しい生地の匂いをビニール袋の中に充満させている。私たちは、白いソファに座って白いテーブルの上で白い光を浴びて、店員がコーヒーのオーダーを取りに来てくれるのを待つ。

     ◯

 昼間に行ったんだけど、閉まっていたんだよ。閉まっていたっていのうは、その時たまたまお休みだったっていうことじゃなくて、もうつぶれて店じまいになっていたっていうことなんだけどね。仕方がないから君はアプローチの階段に座り込んでブーツを脱いでしまう。

     ◯

 笑いながら誰かと思えば紀子だった。片方の手を口に当てて笑いをこらえ、片方の手は冬だというのにホットパンツのポケットに突っ込んでいる。

     ◯

 君が出かける後ろ姿を最後に見たのはいつだったろうか。ぼくの部屋にはまだ赤いソファが残っている。その前に君は立って髪の毛をなんども手でいじっていた。細い鎖でつながれたハンドバッグを肩から下げて、黒いシックなドレスを着ていた。それは、夏の出来事だった。

     ◯

 古物商の店頭に若い女の子が座っているのは奇妙に思える。でも、60年代にはそういうダイヤル式の重たい電話や一文字打つのにものすごく騒がしいタイプライターを、君みたいな若い女の子が操っていたのだから、その違和感は極めて単焦点的なものだ。もちろん最近はやりのレトロ趣味にかぶれて、あるいはかぶれすぎて君がそんなところに座っているとは思わないけれど。うん。それじゃあ、ぼくはなんと声をかけたら良かったのだろう?

     ◯

 クルマ一台あればどこへでも行けると思っていた。どこへでも、というのは人のいないところへという意味だ。でも、車をずっと走らせるにはどこかでガソリンを入れなければならない。同じ意味で、ぼくたち人間もどこかでパンなり牛乳なりを買わなければならない。


【小説】ノブレス・オブリージュ〈第七章〉

     七 実業家の出発

 携帯電話を閉じると圭史はちょうど大学図書館の前に立っていた。キャンパス最寄りの地下鉄の駅を出たところで電話を受け、話をしながら歩いてきたのだった。大通りの交差点を越え、いつもの通用門をくぐってきたはずだったが、通話に夢中になっていたせいか、自分が歩いていたということをほとんど覚えておらず、パチンと音をさせて二つ折りの電話をたたんだとき、初めて周囲の音や光が自分の中に入ってきた。
「ああ……まだ暑いな」
 額から流れてくる大粒の汗を手の甲でぬぐいながら圭史は独りごちる。燃えるような夏の木立の明るい影が、図書館の入り口へ上る階段を半分おおっている。その前に乱雑に並べられた自転車の群れ。石畳を強く照らす、季節としては盛りを過ぎてなお最後のエネルギーを主張し続ける太陽の光。頭から降り注ぐ蝉時雨。──と、広場の真ん中に位置する噴水が沈黙を破る。一度それが始まるとあたりは水音に満たされる。関東大震災後に立てられた堅牢な校舎の壁に反射する音が、圭史の皮膚へも届く。
 手に持っていたトートバッグを肩に掛け直すと、その中に入っている真新しいノートの重みを感じる。昨日の夕食が終わって自室に戻ったあと、圭史はすぐにペンを走らせ始めた。父である圭造から一式渡された幕張本郷の登記簿と関係書類の束からは何らのイメージも湧いてこなかった。だからまずは何らの制約もないと仮定してプランを書き出していくことから始めようと思った。
 確かに、その中に「トキワ荘」構想はあった。けれどそんな子どもの夢のようなものを圭史も最初からできると信じて書いたわけではない。堅実なプランは他にいくらでもあった。駐車場、トランクルーム、貸倉庫、あるいは商業施設への転換。万年筆を走らせながら、そういったお座なりのとでも言うべき優等生的な回答はすらすらと出てきた。そしてそうしているうちにいよいよ自分が父親の敷いたレールの上をなんのきしみもなく滑走し始める風を感じた。正確に言えば、風圧を感じた。途端に圭史はノートのページをあらためるとほとばしる本流の飛沫をすくい上げるようにして実現可能性を度外視した計画を書き始める。「アーティスト・イン・レジデンス」多くは公共機関が資金を提供し、ある場所に作家を招いて住んでもらい、創作活動に専念してもらう。
 いくつもの妥協を圭史は繰り返してきた。そしてまた抱え続けていた。偉大なる父への反発。そんな物語にからめ取られることを潔しとする男ではないつもりであった。けれどわかってもらえないことに居心地の良さを感じるほど自分の人生に楽観的でいられるような年齢でもないという自覚はあった。日々それはむしろ強まっていくのだった。形はどうであれ、具体的な挑戦を仕掛けられるのは初めてのことだった。始まりの合図。父も頭の悪い人間ではない。あらゆる計画を練りに練った上で、そのボールを圭史に投げてきた。あの場所で、記者まで呼びつけてそのことをしたということには、並々ならぬ父親の本気を読まなければならない。だから圭史もまた、同じ気持ちで投げ返さなければならないと感じていた。
 父の問いにどう答えるのか?
 それを考えるために図書館に来たはずだったのだが(彼はしばしば図書館の特定の席に座って半日近くノートを広げて過ごすことがあった)熊谷磨理との電話で思わず口走ってしまったことが、もしかしたら答えなのではないかと、不意に口をついてしまったのだからこそむしろ自分の本心に近い答えなのではないかと妙に納得する自分がいた。甘い夢の残り香と、あられもないキャッシュの流れとに橋を架ける──その発想こそがずいぶんと子供じみていると言えばそうなのだが──いずれにせよ、圭史の目に今映っている噴水の水しぶきと池の端を覆う夏の緑は端的に自分の心を反映しているようで、時代がかった私小説の世界観みたいだと、圭史は自分の中にうまれいずる新しい感情を少し恥ずかしく思いながらきびすを返す。図書館で思案に暮れている場合ではない。まずはその土地を見に行こう。

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【小説】ノブレス・オブリージュ〈第六章〉

     六 再びの東京駅

 夜になって磨理の前に姿を現したのは意外にも本田教諭だった。内心、怒りをあらわにした母親が大きな足音を立てて階段を上って来、横っ面のひとつでも張られるのではないかと思っていた磨理にとっては、そんな自分のドラマチックな想像力の幼稚さを恥じると共に、母親がどんな考えで福島に残っているかわからないその不可解さ──その不可解さに対する恐怖が背中を走り抜けるのを感じる。本田の姿を目にしたとき、母親との再会が少しだけ後のばしにされたことを、彼女は必ずしも喜ぶことができなかった。大げさに言えば、真実が少しだけ自分から遠ざかるような気がした。
「何をやっているのよ……あなたは」
 狭い控え室の扉が五時間ぶりに開いた。本田は長い髪の毛をくしゃくしゃに振り乱し、珍しく眼鏡をかけていた。なりふり構わず自分を迎えに来てくれたことに、そして自分を探してくれる人間がまだこの世にいてくれることに、磨理は張りつめていたこの二日間の感情が一気にほぐされるのを感じる。そして自分の意志ではどうしようもない涙が目から流れ出る。お座なりな演出だ、こんなのは。磨理は思わず出てしまった本心を恥ずかしがって隠すように手の甲で必死にあふれてくる涙をぬぐい続ける。こんなところで泣くのでは、自分が意を決して出てきたことが全部ウソのようになってしまう。感情のつじつま合わせはいつだってすべてが終わった後でないと取りかかることができない。パイプ椅子から思わず立ち上がる磨理の身体を、本田は両手で抱きしめる。「なにをやっているの」と言う声も次第に震え始め、何度も繰り返すようになり、そして最後にはその形も失っていった

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【小説】ノブレス・オブリージュ〈第五章〉

     五 帝王学

 間もなく、持っていた期限切れの学生証から彼女が本当に熊谷磨理であるということがわかると、磨理はパトロールカーに乗せられて原宿署に移された。車で移動するほどの距離ではなかったが、生まれて初めて乗ったその後部座席のクッションの硬さに、あるいはスモークも張られていないために信号で車が止まるたびに横断歩道を行く歩行者からちらちらと視線を投げ込まれるそのいたたまれ無さに、自分が何かとんでもない犯罪を犯してしまったような気持ちにさせられる。
「ここんところ、代々木の駅近くで君に似た人間の目撃情報がたくさんあってね。いろいろと出回ったんだけど、やっと見つけた」
「私、どうなるんですか?」
「まあ、今日は署に泊まってもらって明日お母さんにでも迎えに来てもらおうか」
「やらなくちゃいけないことがあるんです」
「お母さんに謝る方が先だ。それよりも優先されるものなんて、この世の中にはないよ」
 若い警察官はまるで学校の教師のように自分の言葉を大事そうに一音一音明瞭に言う。なおも磨理はパーティーへ行けないこと、圭史を駅で待ちぼうけを食らわせてしまうことに気をとがめていた。彼女の手の中にはポートフォリオに変わって、自分の第一作となるべき漫画のネームが仕上がって収まっている。
「携帯電話、使ってもいいですか?」
「今はダメだ。誰かに連絡を取るのは私たちの役目だから。それとも、本当にそうするかい? 駅で誰かと待ち合わせていたみたいだけど」
 警察から直接連絡が行くことで相手を動揺させることの方がまだましだと磨理は考えてもみたが、連絡をするにせよしないにせよ迷惑をかけてしまうことには変わりなかった。それならば彼の前からはもう姿を消し、最初から無かったことにしてもらった方がかえって良いかもしれないとも考えた。これは何かの間違いで、長く短い夢を見ていた。……
「いえ、いいです。あとで自分で何とかします」
 明治通りの前方にはNTTドコモの代々木ビルが見えている。ここ数日新宿駅の周囲をあてもなく歩き続けた。そのいつでも、あの尖塔が見える方向で迷子にならずにすんだ。何となく磨理はその建物に愛着を感じ始めていた。だが車は急に狭い隘路へと方向を変え、磨理の視界にはなじみのない世界が飛び込んでくる。建物の脇にはびっしりと警察車両が縦列駐車されている。そしてその中の空いている一画に車両は静かに止まった。

 珍しくパトカーとすれ違った東山圭史は不審気な顔をしてそれを見送ったが、千駄ヶ谷の駅についてもそこに誰一人熊谷磨理とおぼしき人物がいないのを見るにつけ、いよいよ彼女の身に何か事故があったのではないかという予感にさらされる。彼はその場で彼女の携帯電話に幾度かかけてみたが「電源が入っていないか電波の届かないところに……」という録音が流れるだけだった。交番にも顔を出してみたがもぬけの空だ。よくわからないが何か一杯食わされたのか? それとも本当に彼女はいなくなった? この状況をどう判断して良いかわからず、とりあえずもう一度改札の所まで戻ってきたとき、彼は自分の名前を呼ばれるのを聞いた。
「圭史!」
 顔を上げればクラスメイトである篠田有と日下部美佳とが改札口から出てきたところだった。
「なんだ、駅まで迎えに来てくれてたの? で、お出迎えのハイヤーはどこだい?」
「いや、すぐそこだから歩きだ」
「誰も本気でそんなこと言ってないよ」
 いつもの調子で二人は言葉を交わす。けれど相手の顔になにやら心ここにあらずの影を有はすぐに見抜く。
「誰か待っていたのか?」
「いや、待っていたと言えば待っていたんだが……」
「あっ、女の子か。なるほどなるほど」
「いや、ううん。そうなんだけど、そういうんじゃないよ」
 圭史はそう言いながら歩き出す。
「待ってなくていいの?」
 今度は美佳が驚いて声をかけた。
「いや、いい。とりあえずもういいんだ」
 三人は互いに妙に居心地の悪い感情を抱かせあいながら歩き始めた。

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【小説】球体の展開図

 私には全てがわかった気がした。あの人は最後にこう言った、きっとあらゆるものはなにかと引き替えなのだよ、と。長い道のりを経て、そう感じたことを私はとても強く、痛くさえ感じた。
 眠れない夜が続いて、私の体力も精神力もへとへとになっていた。電話がかかってきた。そこまではおぼえている。もう少しで空は明るみを取り戻そうとしている時間だった。
「ねえ、そうやって狭い部屋の中をあっちこっち歩き回っていないで、座って考えてごらんよ」
 古くて長い映画のエンドロールを部屋のテレビは流している。あれ? この場面って、さっきも見ていた気がしたけれど一巡りしてしまったのかしら?
「同じCDばかり聞いていていると他のものが聞けなくなることがあるもんだ。君はもう君の物語の中にどっぷりつかってしまって、そこからはみ出そうとするものを拒絶し始めているんだ。でもそれは一瞬の出来事だよ。物事には順番てものがあるんだ。ここを乗り越えれば君は、そうだな……強くなる、とでも言っておこうか」
「うるさい、私は明日死ぬ」
 少しもそんなことなんて考えていないのに私は頭を抱えながら、叫ぶ。そのひょうしに手に持っていた携帯電話はいきおいをつけて落ち、床をすべって私の部屋の入り口のところで止まった。液晶画面のほのかな明かりが今この小さな空間を満たす全ての光源。

その愚かさは引きずっていかなければならない……。

オールドボーイ・ミーツ・オールドガール、だよ。

 性未分化な「ぼく」は多少は女の子の萌芽を感じられる「きみ」に恋をする。それはきわめて観念的なものだ。けれど子どものリアルさはそこにはない。きっと「ぼく」は宇宙的な諦念を引き連れた男たちや女たちの行き着く先なのかもしれない。それは思春期を通過する時に一瞬、窓外をよぎる影。けれどその列車は大人たちが仮想したものだったのに違いない。物語を紡ぐことでお金を儲けようとしている大人たちの手によって、巧妙に仕組まれた罠だったに違いない。けれど罠にかかったのは想定外にも、大人になり損ねたdead bodyたちだった。「ぼく」に漂着した瞬く間に「きみ」は浮かび上がる、オートマチックに。そこはとても居心地がよいのだろう。かつて見過ごした景色は今度ははっきりと形を持って眼前に現れる。それからは自動生成的に「ぼく」の宇宙は、いやそれこそ宇宙のように無限に広がり続ける。「きみ」の変奏は限りなく繰り返される。「ぼく」は大人たちのかつてでは決してない。かつて、であったかのようなものだ。巧みに偽装したノスタルジーだ。でもいいよ、それはわかっている、なり損ねた大人たちは口々に言う。子供だましっていうけど、だまされている子どもなんていやしないよ、子供だましっていうのは子供だましにだまされているフリをしている子どもたちにまんまとだまされている大人たち──もまた、それを知ってていたとしたら? 子供だましっていう共犯。でもさ、だまされている方が心地いいものなんだ。

私は口早にそういい返す。

オールドボーイ・ミーツ・オールドガール、だよ。

どういう意味? ああ、「ぼく」と「きみ」の話ね。

 私はもう一度狭く暗い部屋を見渡す。携帯が鳴ったのはそのときだ。私は誰と話をしていたのだろう? 私の頭の中で誰かが勝手にしゃべっているの?
「もしもし? もしもし、もしもし!」
 違う違う違う、ちがうってば。携帯電話が鳴ったと思ったのは気のせいだった。私はのけぞってさっきとなんにも変わらない液晶画面を見て叫び出しそうになる。さっきは本当に叫んだのに、何演技してんの、私。私はそんなに誰かからの連絡を待っているのかな。そんなにも誰かとおしゃべりしたいのかな。誰かにわかってほしい「構ってちゃん」なのかな──なーんて、そんな私を作ってみてそんな妄想してるそんな私がなによりも大好き。

 エンドロールが終わった。映倫のマークが出て、画面は本当に真っ暗になった。そして唐突に映画の中に出てきた字幕を思い出す。「僕は君で、君は僕なんだ」って、なにそれっ! そんなこと言ったら私の理論が崩壊しちゃう。

 「きみ」なんて最初からいなかったの? 追憶の中の「きみ」はきっと誰かの助けを求めている。そして「ぼく」はその誰かになることは出来ない。それはわかっている。むしろその無力感が「ぼく」の全てだ。無力な「ぼく」を定義づけるために「きみ」は出現したに違いない。

「なぜならきみは、かつてのぼくだからだ」

 昨日までのぼくだったらきったない小動物の出そうなバーにでも行くところだが、あいにく1980年12月8日生まれのぼくにはそんなコノテーションは小さなポケットに持ち合わせていない。兌換不可能性。ぼくはついに「われわれ」と一線を画しその足で歩き始める。といって行く先があるわけではない。さながらジョン・レノンを射殺した犯人捜しとでもいったところか。いや、この比喩は案外「ぼく」を形容するにふさわしいかもしれない。
 それでももうすぐ三十歳になってしまうぼくは自己表現だの自己実現だの言っていられなくなり、まあ元々会社員ではあるのだけれど三十歳の誕生日を境に犯人捜しをやめて仕事に身を入れようと思い立った。今のところその期限まで半年ある。
 少し、──しゃべりすぎたみたいだ。この少ないパラグラフで「ぼく」についての紹介を詰め込みすぎたかもしれない。けれどここからはゆっくり行こう。

ぼくは、きみに、話しかける。
 
 この時間が永遠に続けばいいと思った。きみがいて、色や形や声の響きやそういうのがあるっていうのが実はすごく救いになることに、ぼくははじめて気がついた。目に見えないものと戦っていると、なんにも見えなくなるんだ、ときどき。そうだ、現実ってやつは、いったいどこにあるんだ? いや、この問い方は実に凡庸だ。「現実」なんて言葉を持ち出してはいけない。それは色や形や響きを持っている。そう言えば充分じゃないか。

「私」は死にたがっている。死にたい死にたいと毎日心の中で念じている。「私」は「私」を殺せるか? 「私」のないところになにが残るか? 退歩、を旨とせよ──と、治療薬は言う。怠惰こそ「私」を殺すために必要なものだ。

同じ場所、同じ時間というのは再現不可能だ。そこに挑むことこそが書記の現場だ。そして現実というものはぼくの相手ではない。そもそもがかなわぬ相手だ。リアリズム? 本当らしく書くことがどれほど意味があるのか。読者よ、本当らしさは現実の嘘くささに負けるべきなのだ。

ある作家は、その日記の人称を常に「おまえ」と書き続


【小説】御茶ノ水橋…14

十四 エピローグ~田中麻衣との対話

 記憶ってどんな形で最後は残ると思いますか?

 誰にでも忘れられない瞬間というのはあると思うのだけど、あとあと考えてみるとそういう記憶って映像──というか、スナップ写真みたいな形で脳裏にずっと居座っていることが多いんです、私の場合。最初は声とか、言った言葉とか、匂いとか、そういう他の触覚に訴える情報も付随していたと思うのだけど、いつの間にかそれがごっそり抜け落ちて行きます。なにかの漫画で、主人公の女の子が好きな男の子の「声をいつまで覚えていられるのだろう」と絶望するシーンがあったのですが、彼女を救うことは出来ないかもしれない。そして、スナップ写真も最初は鮮明な姿をとどめているのですが、だんだんぼんやりとハレーションを起こしていきます。最後に残るのは──なんと言ったらよいでしょうか、「光の感じ」とでも言うしかありません。ルクスでは測ることの出来ない、夏のぎらぎらした陽光や喫茶店の中の柔らかい間接照明、冬の張りつめた朝日。そんなものが最後には残るように思います。

 それがあなたの写真を表す一つのキーワードであるならば、ぼくは記憶の根源のようなものに触れてしまったのかもしれません。そこからはあらゆるものがくみ出せるのです。だから共感という言葉も成立するのだと思います。

 私は、あなたの言うような瞬間をなるべく写真に撮るようにしてきたと思っています。その意味で、あなたが感じていたノスタルジアをあらかじめ先取りして溜め込んでいたのかもしれませんね。私にとっては人を撮ることにしか興味がなくて、そうすることで一番よくわかるのが自分自身なのです。いわゆる決定的瞬間のようなものではなくて、本当になんでもない場面のものの方が理解の助けになります。私を形作ってきたもの──。

 だから全く関係のない赤の他人はあなたのファインダーの中には登場しない。

 もちろん。あなたもそうなのではないですか? 写真は撮った瞬間が創作なのではないのだと思います。それを見返すことによって、例えばあなたが過去の出来事を文章のそこかしこに散りばめるように、撮った瞬間を後で「見る」ことの中に創作があるのだと思います。というか、写真の力っていうのは、見る人にそうせざるを得ないところにあるのだと思います。

 どうしてぼくにとっては赤の他人の姿が映っている写真を見て、こんなに心動かされるのかを自分なりの理解の仕方で分析しようとすると、結局は自分のことに戻ってきてしまいます。この小説は、もしかしたらずいぶんとぼく自身とは関係のないエピソードで飾られるかと期待していたのですが、やっぱりそうはならなかった。

 私たちは自分が大好きなものを書いたり撮ったりしているだけだからです。そしてそれでいいのだと私は思いますけど。私たちは自分を知るために表現をしているのだと思っていましたけど、そうではないのですか?

 それでいいと思います。自作解説は好きではないですが、あえて言ってしまうと、ぼくの場合はあったかもしれないもう一つの人生を描き続けているようにも思います。あなたの写真を見て、たまたまなのかどうかわかりませんが、親しみを感じた。そしてぐいぐいと引きずり込まれました。もちろん、あなたの写真を契機にして自分自身の中に、という意味ですが。

 ところで、神田川は海にたどり着きません。隅田川に注ぎ込むのをご存じですか?

 ええ。さしずめ、墨東奇譚に願をかけたようなものに誤解されるかもしれませんね。それも当たらずとも遠からずですが……結局のところ高井戸まで逆流して見せた切りで、ほとんど同じところをうろうろしていただけなのかもしれません。ただ、これでぼくもようやくほとんどの場面をスナップにしつくした満足感を覚えているのです。ずいぶん時間がかかる非効率的な道具立てですが、ぼくにとってはエピソードを文字として残しておくことが一つのスナップショットのような役割を果たすのです。

 現像までにえらい時間がかかりますね。

 それもずいぶんゆがんだレンズです。でも、ゆがんでいるからこそ自分の見たそのままを、ありのままの主観を、投射できるのかもしれません。

 写真だって、真実を写しているわけではありません。写真が日本に輸入された当初は「光画」という翻訳語を使っていたそうです。私はこっちの言葉の方が好きです。写真を見たからってなにかがわかるわけではありません。むしろフレームから外されているもの多さに戸惑うばかりです。

 同感です。でも、全てを書き尽くすことは不可能でしょう。地球の姿を写真で撮ってみたところで、あるいはグーグル・アースで拡大と縮小を繰り返したところでなにがわかるでしょう? この物語の中にも書かれていないことはたくさんあります。

 余白に対して、私たちはなすすべもありません。ただ最初に言ったように、私にとっては写り込んだ光の織りなす模様が全てです。なんのキャプションも必要ありません。失礼、あなたの書いたものを否定しているのではなくて、それらは並立の関係にあるのでしょう。あなたの書いたものに対するキャプションが私の写真である、なんて比喩も意味をなさないでしょう。私たちは、同じものを見ているのに過ぎないのですから。誰のものでもない、人類の記憶の光源を。

 これからも目をそらさずにいられますか?

 あなたは?

 ぼくはもうすっからかんです。全て出し切ってしまって、もう何も思い出すべきことは残っていない。

 であれば、新しい記憶を探しに行きましょう。私はいつもそう思ってカメラを手に日々を送っています。あなたのすぐそばの、あなたの大好きな人達の中に光は宿っています。それを見逃さないでください。道具に縛られることは愚かなことかもしれませんが、カメラという手段があるからこそ私たちは「見る」ことについての新しい概念を手にしたのです。そのことにまずは感謝すべきです。そして、写真を撮り続けること、書き続けることこそが私たちに許された唯一の献身なのです。


【小説】御茶ノ水橋…13

十三 喫煙所での提案

 教育学部のラウンジが禁煙になったおかげで私は図書館を挟んだ反対側にある文学部の喫煙場所、通称「非常階段」まで歩いていかなければならなかった。どうやら今度新しく変わった学部長が自ら「将来教職者たるべき学生をあずかる身として学部内に喫煙所が存在することはとうてい認められるものではない」と息巻いて一夜にして撤去してしまったらしい。反発はむしろ所属の教授連から出ているらしいけれど(彼らの二言目には「ファシズム反対」を唱えるのもどうかと思うれど)、まあ同じ学内とはいえあまり見知った顔のいない場所を憩いの場所にするのはあまり気の進む話でないことは確かだ。
 「非常階段」は三階と四階の間の踊り場に小さな灰皿が設置されており、屋外の階段なので雨の日は使えない。よく授業の終わったあとの教官と学生たちが談笑している姿が見られて、古き良き文学部のの伝統が息づいている一画なのだろう。政治の季節にはさぞここで激論が交わされたに違いない──踊り場を囲う鉄製の柵には今から見れば大時代なスローガンの書かれていたのであろうペンキのあとが錆びに紛れて黒ずんで残っている。
 その喫煙場所に向かうべく螺旋階段の突端、一番下までやって来ると上から「明子!」と私の名前を呼ぶ声がする。見上げると石田が煙草をくゆらせながら柵から身を乗り出して見下ろしている顔が見えた。
「こんなところまでわざわざ吸いに来るの?」
「君たちと違って肩身が狭いのよ」
 上から覗く姿がビートルズの有名なアルバムのジャケット写真みたいだ。けれど日ざしが強い。私は階段にヒールを響かせながら上っていく。足元から気温を吸い込んだ鉄板の熱が伝わってくる。日傘を持ってくれば良かった。
「海、行かなかったの?」
「柿崎君の言っていたやつ? 石田こそ元部長なのにそういうイベントには参加しないんだ?」
「俺はたまたま本屋のバイトと重なっちゃってて」
 石田は得意の(これは本人談だが)ドイツ語を生かして大学近くの輸入書籍を扱う書肆で夏の間だけアルバイトをしている。キャンパスにいるのはお昼休み中かなにかなのだろう。
「明子こそ、遊びに行くより図書館通いの方が重要そうだな」
「私は──まあ、優等生君たちの青春ごっこにはつきあいきれないのよ」
「あいかわらずだねえ」
 そう言って石田はくっくっとかみ殺すような笑い声を上げる。私は別に冗談を言っているつもりはないのだけれど。
「そうは言っても、俺たちも会うの久しぶりだよな。ずっと卒論やってたの?」
「そんなわけないじゃない。たまには遊びに行ったりしているよ。この前、そうそう、学部の友達で回転寿司を食べたことがないっていう子がいて、どんだけお嬢様なんだ! と思って連れて行ったのよ、築地のそこそこいいところに」
「ほう、それはまたいいね」
 彼は新しい一本を、私はかばんの中から自分のメンソールを一本取りだして点火する。
「それでそのとき聞いたんだけど、その子最近どうしようもなく煮え切らないデートをしたっていう話をしてくれて、本人の名誉のために詳細は省くけどさ、よくよく聞いてみると相手が大賀君だったのよ」
「うちのサークルの?」
 石田は口から煙草を落としそうになる。
「大賀ってけっこう懲りないところあるよな。前に美絵とつきあってたよね」
「美絵の方は自分の人生における唯一の汚点だって言ってたけど」
「ひどい言いよう」
「大賀君ってわりと破滅型だから無理と充分承知の上でがっつくからたちが悪いのよ。そのくせ見た目がそれほど悪くないってことに自分でうすうす気づいているところが輪をかけて彼をダメ男にしている」
「明子さん、今日はいつにも増して意見がキビシイね」
 私たちは話をする、くだらない話を。
 日ざしはますます強くなる。額から汗が流れ落ちてくる。三十分以上はこんなところに立ってていられないな、とは思っても地上四階でこの暑さなのだからあのアスファルトの上は今頃はさらに暑くなっているだろう。
 風が通りすぎる。キャンパスの緑が揺れているのが見渡せる。都会のど真ん中に位置するキャンパスの中はまるでこの大学が創設された明治時代から時が止まっているみたいだ。聖域。世の中がどんなに便利になっても、関東大震災後に築かれた過度に堅牢なレンガ造りの建物とそれを囲む深い森とは毅然とした態度を変えようとしない。百年前にここを歩いていたであろう人達と、私たちはちゃんとつながっている。
 私は一本目の煙草を灰皿の中へ落とすと、両手の親指と人差し指とを使ってフレームを作るとゆっくりと右から左へ視界を動かしていく。図書館北側の茂みの前は合格発表が張り出される場所だ。私の高校は合格発表の日が卒業式だった。この大学を受けた同級生たちはみんな連れだって発表を見に行ったらしい。私はそんなのはいやだから家で合格通知が来るのを待っていた。一人ででもいいからやっぱり見に行けば良かったなと、今は思う。木の上に上って下りられなくなった猫をみんなで助けたこともあった。あれは、何年生の時だったっけ。フレームの中からわき起こるいくつものエピソードを私は数え上げていく。
「ところでさ」
 石田の声のする方へ私の手は動いていき、煙草のパックを胸ポケットへ仕舞いこんでいる彼の姿をとらえる。
「うん?」
「これは、元部長としての提案なのだけど、卒業展覧会をやりたいんだ」
 私は手を下ろす。
「まだ誰にも話してないんだけどね。とりあえず元副部長でもある明子には知っておいてほしくて」
「やるとしたらいつ?」
「わかんない。卒業式の直前かなあ。みんなまだいろいろ忙しいだろうし、卒業なんて言葉も聞きたくないだろうから温めているんだけど」
 そう言いながら石田は床に置いていたかばんを持ち上げ、腕時計をちらりと見る。
「そろそろバイト戻るわ。ちょっと考えておいて。みんなの気持ち次第だけど、最後くらいまとまった何かをぼくたちも必要とするはずだよ」
 そして彼はにやりと含みのある笑顔を残してさっさと階段を下りていく。残された私は「卒業展覧会」という言葉が心の水面にぽちゃりと落ちたその波紋の形に耳を澄ませる。
 いやな気持ちはしなかった。むしろ温かな何かが体中に広がっていくのを感じる。しばらく忙しくて手に取っていなかったカメラを持って街へ出て行きたい気持ちが静かに高まってくる。永遠に今の生活が続くような気がしていたころ、一日中外でシャッターを押し続けても飽きなかった。大学に入ってから偶然ある授業で見た木村伊兵衛の写真に魅了された私は、一方であまりに自由で広大すぎるキャンパスでの身の処し方に途方に暮れていた中で、写真を撮ることを現実との紐帯にしていたように思う。
 「青春ごっこにはつきあいきれない」と啖呵を切ったわりには、しばらく忘れていた気持ちを思い出す。思い出させられる。その、一言によって。
 ずるいなあ、と私は眼下の石畳を歩いていく石田の背中に向かって思う。そして、あーあ、と伸びをして「やっぱり海に行きたかったのかなあ、私は」と図書館の上に広がる真っ青な空と次々と形を変えていく入道雲を見ながらぼんやりとつぶやいた。