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佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない』

ミニマリスト界隈の本は、例のアップル信者的なメンタリティが嫌で食わず嫌いでしたが、この本はさほど上から目線じゃないところがそこそこ読めた気がします。ある日いきなりすべてを捨てるのではなくて、少しずつ減らしていくというのも(たしかコンマリはだめと言っていたような気がしますが)ありだと思います。ミニマリズムという「イズム」になるとそれはイデオロギーであって、思考停止の一歩手前です。もう少しなんか良い言い方がないものか。ミニマリズムという言葉から受け取れるのはひたすら少なければ善という強迫観念でしかないので。もちろん筆者はそれを否定していますが、否定しきれていないよね、具体的なあれこれを見ていると。高度資本主義に踊らされるな、というか、広告に騙されるな、ということのほうが大きいのかもしれません、実際は。さりとて、たぶんモ○・マガジンとかソトコ○あたりはミニマリストの選ぶ珠玉の逸品! なんて特集をやって購買意欲を掻き立てていたりしそうで、そういうのとごちゃごちゃになっている猥雑さが、やはりミニマリズムの怪しいところだったりするような気がします。ロハス商法と似てるよね。とにかく本質を見失わないように気をつけなければいけないのだと思います。


吉原珠央『自分のことは話すな』

なんとなく編集者が一方的につけそうなタイトルですが・・・新書ではありますが、ひたすら具体例に次ぐ具体例。理論を学ぶというよりは、書かれているケーススタディの中で自分だったらどう振る舞うかを頭の中で考えるための本かもしれません。ここに書かれていることがすべて正解だとは思わないですし、著者も同じスタンスなんだと思います。「自分のことは話すな」というのは一面的な見方で、本質は「他者へ関心を持て、そいつが一人の人間であることを想像力を持って把握せよ」ということの方に重点が有るのだと思います。

内容は悪くないので、だらだらと聞き書きをしたような構成のするのではなく、もう少し脇を締めた構成にできなかったもんか・・・。中身をもう少しパターン分けして整理して、もう少し抽象論で各章立てごとにまとめてくれれば「新書」としても成立していたのにもったいない感じがします。このページ数で「私って自分のことは話さないほうがいいと思うのよねー、ダラダラダラ以下同文」で終わっているのがもったいない。個々の事例は非常に面白いし、考える切っ掛けになります。


西任暁子『本音に気づく会話術』

再読。西任さん著書は三冊出ていますが、新刊になるほどに純粋理論にバージョンアップしていくのでけっこうついていけなかった感じもあったのですが、改めて三冊読み返してみると、この本が一番読み応えがあるというか、実践編としてもう少し自分にひきつけて自分だとしたら、という観点で咀嚼する時間が必要だなと感じました。平易な言葉ですが自分の発言が本当に自分のなんの「ニーズ」に端を発しているのかって結構、自分の深淵を覗き込む恐ろしい作業だと思います。そこには自分のとてもつまらない石ころしかないのかもしれない、自分の価値観なんて、なんとも自己中心的でどうしようもないと絶望するかもしれない。でもまずはそれを直視することからしか始まらない。「ニーズ」は、齋藤孝的にいえば「沿いつつずらせる」ものだと思うから。もちろん自分がどう感じるかを丁寧に相手へ伝えるという手間も必要だろう。でも例えばビジネスの現場ですべての会話でそれができるかというと無理だろう。だから、自分のスタイルや話し方を変えたいのであれば、自分のニーズを、相手と共有できるニーズにずらしていくこと、解釈し直すこと、あるいはリクエストすることで逆にニーズを共有できる可能性に賭けてみること、そういう勇気が必要になってくる。ここには、相手への関心という第二のテーマが出てくる。

二冊目の『聞く会話術』はどちらかといえばインタビューのハウツーのようにも思えたけれど、底流に有るのはあくまで相手への関心をいかに持つか。だから、この『本音に気づく会話術』はぜんぜん逆のことを言っているようにも最初感じられたのだけれど、実は同じことだ。相手に関心を持つ主体は自分だ。相手に関心を持っている自分をまずは愛するということ。そこに価値を置くということ。それくらい回りくどいことをしないと、会話術は本当にただの文例集というか、ハウツーで終わってしまう。そうではない。実は、会話術というのは自分の価値観を冷酷に見据えた上で、相手と共通の財産を築いていく冒険のためのとんでもなく心強い技術なのではないか。それがなければぼくたちはお互いに言いたいことを言い合って終わり、というツイッターのような世界でただそれを「会話」と勘違いしただけで終わってしまうのかもしれない。


サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

伝統の野崎訳を久しぶりに再読。やっぱりいいね、ライ麦は。ライ麦畑は子供の王国。でもいつかは大人にならなきゃいけない。大人になるというのはくだらないお喋りをするということだ。主人公はいちいちクリシェにひっかかる。別れの挨拶「グッドラック」? どうせ幸運なんか祈ってもないくせに! すべてがこの調子。このとんがり具合は苦しい。はっきり言って十代の苦しさだ。しかしこれを乗り越えられないと精神病院送りなのだろうか?。卒業というのが、今も昔も一つのイニシエーションとして有効なのかもしれないけど、これに失敗するとやっぱり社会的にはどこにも行き場所がなくなってしまうのだろうか。

映画へのこだわりは村上春樹の解説に詳しかったような気がするんだけど忘れてしまった。また村上訳もそのうち読み返してみよう。


ガー・レイノルズ『プレゼンテーションzen』

を、読みました。

まあ、なんというかTED至上主義というか、ジョブズ教というか、そういうのはイデオロギーとしてある種の業界人には有るようですが。こんなふうなパワポは日本では無理でしょう。うん千人もいる大企業においては。なぜなら全社員一人ひとりに口で説明しに行くわけには行かないからです。あるいは有る一人のプレゼンを動画に撮ったところで全社員が視聴するわけには行かないからです。そこにはコミュニケーションにかかるコストという問題がかならずある。パワポに情報を詰め込みすぎるのは、その資料が自分の知らないところに出回ったときに意図がきちんと伝わるようにしなければならないから。もちろんそれは配布資料で代替できるのでしょう。けれどどこの世界に配布資料とプレゼン用の資料を毎度毎度用意する時間と労力を持つサラリーマンがいるというのか? 誰もがジョブズではないし、誰もがプレゼンをチームで作っているわけではないし、誰もがTED主義者ではない。

こういう一部のかっこいい人の喧伝を聞くとき、常に頭に思い浮かぶのは太宰治の『駈込み訴え』です。キリストの奇跡を陰でのたうち回って仕込んでいたユダという男の悲痛な叫び。すべてのサラリーマンはユダなのです。


2019/07/29

今日は心を失ったなあ。スピード重視の仕事も確かにあるのだけれど、人間業には限界があるわけで、本当に毎度毎度限界を目指すことが仕事としての正解かどうかはちょっとわからないよな。でもわからないときって「ASAP」しか正解がないように見えてしまうからたちが悪い。立ち止まって考えるよりも手を動かすことを優先してきた自分なりの「やり方」も、万能ではないということをそろそろ覚えなければならないのだろうけれど。外野はしかし、誰もわかってはくれないんだよな、結果しか見られないから。ううむ。


スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』

を読みました。

「完全版」と銘打っているのは、これまで手に入る日本語版として晶文社から出ていた『ラディカルな意志のスタイル』というのが、後半のアンケートと「Trip to Hanoi」が抜けている・・・というか、「ハノイへの旅」は『ハノイで考えたこと』という形ですでに一冊の訳書で同じ晶文社から出ていたという事情もあったようです。今回「完全版」は原著の構成どおりという意味の「完全版」でした。訳も「スタイルズ」と複数形になっていますが、ソンタグの映画論、美学論が様々なアーティストを通じて展開されるあたり、「スタイル」の見本市のようで、それは複数形のほうが良いのでしょう。もちろん「ハノイへの旅」における「スタイル」はヴェトナム人とアメリカ人の双方のそれを比較する、前半に比べて書きぶりは旅行記風ではありますが、非常にテーマとしては重たいものを扱っています。

この「ハノイへの旅」は以前読んだとき(それはもちろん上記の『ハノイで考えたこと』を通じてですが)もなかなか唸らせられたのですが、例えば自分が海外へ出張に行くときも基本的には同じように車での移動が中心で、それは安全保障上、仕事なので致し方ないのですがソンタグと同じような課題意識で毎度毎度空港に降り立てるかというとそんなことはなく、個人的にもその重さは多少ながら引き受けたいと考えてはいます。