投稿者「l32314」のアーカイブ

清武英利『しんがり』『奪われざるもの』

思うところあり、読了。前者はドラマ化もされているようですが、山一證券の破綻の際にその原因の一つとなった簿外債務の調査にあたった社内チームの物語です。監査の部署にあった人間(しかも役員)たちですから、結局会社に非があることをつまびらかにすることは自分たちの業務を自己否定することになるわけで、既に店仕舞が進んでいく中でこれを並行して調査報告書としたことは並大抵なことではないと痛感します。その苦労は最後、少しだけ報われるわけですが、そこは人間として少しだけ救われる。組織の人間は自分の収支決算を見て仕事しているわけではないのでしょうが、それでも「義憤」というのでしょうか、そういうものが無給で人を働かせるというのはこれが最後の時代だったのかもしれません。かっこよく言えば、魂の収支報告というか、そんなもんじゃなかったと思いますが。

破綻した1997年は、ぼくは中学か高校生くらいだったと思いますが、横浜駅の西口の相鉄を出たすぐのところに山一証券のビルが確かあって、いつの間にか「メリルリンチ」という当時は全く聞きなれない名前にある日変わっていたのをよく覚えています。山一証券の旧社員の方は多くがメリルリンチに再就職できたそうですが、それも結局は山一の末端社員は優秀であったということのようです。

もう一冊の『奪われざるもの』はソニーの「リストラ部屋」についてのルポですが、こちらはあまり華々しい内容ではないものの、ソニーという何が本業かもはやわからなくなってしまった会社で「技術者」たちがもがき苦しむ姿を描いています。サンヨーと同じとは言いませんが、一つのプロダクトで食い続けるということの難しさ、あるいは家電業界の王道なきばくちさというか、世の中安泰という言葉は本当にないなあと改めて思い知らされる読書経験でした。

ある意味でこういう覚悟を持ちながらも、日々の業務に邁進するという悲哀。そしてその悲哀を決して面には出さずに、部下を鼓舞し続けていくことの管理職のこれまた悲哀。でも奇しくも1997年にヒットした『ビーチボーイズ』というドラマではいいセリフがあったんですけどね。


カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』

を、読みました。これはなんというか、SFというよりはあまりに残虐な人類史上の事件に立ち会った人間が、宇宙時間的な距離をもってしかそれを描き出すことができないという一つの「症例」のように思えた・・・。たとえとして適切でないと思うがエリ・ヴィーゼルの『夜』を以前に読んだ時の恐怖感と同じものを感じた。

戦争はよくないというのはその通りなのだけれど、それは一人一人の死が積み重なった「大量殺戮」という事態それ自体が、人間には捉えきれない、語り尽くせない、把握できない、耐えられない何かを持っているからなのかもしれません。


石野雄一『ざっくり分かるファイナンス』

題名に偽りなし。社内研修で著者の研修を受けたことがありまして、その時の副読本だったのですがこれはほんとうに「ざっくり」わかるのに最適の本です。こういうのって、確かにエクセルでIRRの計算なんかやってみたりするわけですけど、大本の概念が分かっていないと計算はできても「判断」ができません。あるいはぼくくらいの年齢になってしまうと部下に分かりやすく説明しないといけない場面もあるため、大いに参考になります。やっぱり人に説明できるようになるレベルになるまでいろんな本で何度も何度も吸収すべきですね、こういうファイナンスの理論って。ということで三読目完了。


スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』

『ソラリス』は中身に関係がなく思い出深い作品だ。ぼくが持っているのはもちろん沼野充義ではなく飯田規和による1977年版の方。奥付は1997年の24刷とある。1997年にぼくは中学三年生で、当時好きだった女の子がこの本を薦めてくれた。彼女もまた学校の教師にこれを薦められたのだったと記憶しているけれど、今となっては中学生にレムを推薦できる教師がいるあの学校のレベルはさすがとしか言いようがなくて──もちろんぼくの通っていた男子校とは訳が違うということだ。

まだまだいかがわしかったころの川崎駅の中に入っている有隣堂に行って、書棚を探したけれども目当ての本は見つからず、問い合わせのカウンターに行って取り寄せをお願いした。本屋で取り寄せてもらうということも初めての経験だったし、売っていない本も買えるという新しい楽しみを発見することができた。単純だがそれは一つの扉を開いたかのような感覚を15歳の少年に与えた。それでもそのころは文庫本一冊取り寄せるのにも二週間くらいは必要で、だいたい夜の変な時間に家に書店から電話がかかってきて「入荷したのでいつでも取りに来るように」という連絡があるのだった。アマゾンなんかまだ影も形もなかったころの話だ。

いずれにせよ、典型的な宇宙人の造形ではなく「海」という形態の地球外生命体=巨大な液状の脳みそのような──とのコンタクトという設定の斬新さと、このスタニスワフ・レムといういささか発音のしにくい特徴的な名前は当時のぼくの脳みそにしっかり刻まれることとなった。

次にレムの名前を目にしたのは、大学生になってからだ。2002年に、まさにこの『ソラリス』が映画化された(アマゾンの書影はその時の映画のポスターがもとになっているけれど、もちろんぼくが持っている表紙はもっと前のものだ)。その時には世間的にずいぶんとこの奇妙なSF作品が名作として紹介され、再発見される機会が多かった。ぼくはロシア語を第二外国語として学んでいたため、このポーランドの作家の存在は、あらためて身近なものとなった。キリル文字で書かれた「ソラリス」──発音としては「サリャーリス」に近いのだろうけれど──を見ては、ひとり悦に入ったものだった(もちろん原語はポーランド語だが、飯田訳はロシア語版からの重訳)。

そして本屋に行けば東欧、ロシア語圏の外国文学の棚に必ず足を運んでいた日々の中で、『虚数』といった他の作品が翻訳されてることを知り、2004年には国書刊行会から「レム・コレクション」の第一弾として沼野充義訳の『ソラリス』が刊行されたのを書架で見つけ、さすがに貧乏大学生の小遣いではおいそれと手が出なかったものの、その表紙に描かれている波の絵や、都会的な装丁は憧れさせた。渋谷のブックファーストでの話だ、あの巨大な旗艦店も無くなってしまった。そういえば沼野先生も一度だけたまたま研究室に足を運ぶ機会があってお見かけした。今となってはいい思い出だ。

レムの名前はぼくの中で、そのようにして確実に育っていった。特に『ソラリス』以外の作品に手を伸ばしたわけではないのだけれど、なんとなく、15歳でレムを読んだのだということが自分の中で埃のように誇りとして沈殿していった。ぼくの外国文学体験は、14歳の時に「レ・ミゼラブル」と「ジャンクリストフ」に圧倒されるところから始まったのだけれど、そういう岩波的文化圏の外にも豊かな世界があるということを早くに知ることができたのは、かつて好きだったあの女の子に感謝を述べるしかない。


小森陽一『レイシズム』

時節柄もあり再読。永井荷風のテクスト分析はさすがの小森流です。黒人差別の報道をもっと日本でもやれという声もありますが、日本人がどの立場でそれを報道し、ぼくたちがどの立場でそれらの報道を読み解くのかは、もっと自覚的に批判的にならないと結構怖いですよね。ニュースを読むというのは、決して純粋客観的な報道に接しているということでは全くなく、報道各社のフィルターがまずあり、そこに対してまた読者それぞれの文化的なフィルターがかかる。フィルター自体に自覚的であればいいのですが、自らを安全圏に囲い込んで「偏見」を振りかざすことだけはやめなければならない。ヤフーニュースのコメント欄なんて、良くも悪くも読む価値があるのか? この時代の一つの考証にはなるのかもしれませんが……。


『最新会計基準入門』

10年前の絶版本に最新もなにもないのですが、会計ビッグバン当初はこの手の本は重宝しました。改めて再読。世の中はもはやIFRSが当たり前になりましたね。経理的素養を思い出そうと(もとい、そんなものは最初からなかったはずだが)必死に悪あがきをしています。


横光利一『上海』(青空文庫)

を、読みました。

本作は新感覚派としての横光の一つの頂点ということなのですが、内容的には前半は租界の「トルコ風呂」の女達とのあれやこれやがドタバタと続き、後半になってようやく五三〇事件が緻密に描かれていきます。たしかに凝った文体。そして群像を描くのが本当にうまい。けれど、群像の描写がうまいと僕が以前に思ったのは他でもない『蟹工船』だったりするわけです。案外と新感覚派とプロレタリア派は文学史上は対立して捉えられていますが、五三〇事件をしっかりと描くあたり、横光も題材的にはそういうものを選んだりしているわけです。ただ表現手法と表現内容とを対立させても、それは厳密な意味で対立にはならないんでしょうね。横光が当時マルクシズムに対してどのようなスタンスだったのかはよくわかりませんが、ただきれいに、恋愛小説のようにこの事件を描ききってしまうあたりは、横光の感覚というのは抜群です、やっぱりそれはもう。もちろんある事件なり、景色なり、人々の動きなりある人物の目から見えた動向を描き出すのもうまいのですが、個人的には次の一節にしびれました。

〔……〕休んだ煽風器の羽の下で、これはまたあまりに長閑に、参木はミルクに溶ける砂糖の音を聞いていた。

横光利一『上海』

それはどんな音がするのだろうか……のどやかな雰囲気が、光景が目に浮かぶようです。


TOEIC勉強再開

公式サイトにも、7月実施についてコロナ感染予防策が発表されています。ということはIPテストの再開の日も一ヶ月を切っているのでは……? という勝手な予測に基づき、2月末に受けるはずだったための勉強も再開しています。新形式になってから二回目なので、もう少し特化した対策をしたいと思っています。

しかし公式のシリーズ5はちょっと簡単すぎやしないか……? 3000円以上もする本なんだからもう少し実益がほしいんだけどなあ。日々の対策は基本的に「千本ノック」シリーズを愛用してきましたが、「1駅1題」シリーズも少しかじってみたいと思います。このシリーズは種類が多すぎてどれやっていいかよくわからないのが難点。本屋でよく中身を見た上でないと怖くて買えないですね。

最大の課題は目下在宅勤務により通勤時間が無いため、リスニング練習の時間が全く取れないということなんですが、しかしそんな時節にテストはやらないのかな。まあ忘れない程度にぼちぼち勉強を開始したいと思っているこの頃です。


森鷗外『渋江抽斎』(青空文庫)

を、読みました。

ここで終わらないのか? という疑問を持ちながら読みすすめると、ここで終わるのか! という驚きで締めくくられる、「変な」作品ですね。鷗外作品後期の傑作群である史伝のひとつということですが、小説と呼んでいいのかわかりません。ただたしかに言えるのは鷗外の文字通り文の芸=文芸は堪能できます。

冒頭の、ミステリー小説を読み解いていくかのようなふと気になった渋江抽斎という人物へのアプローチからまず引き込まれます。ブッキッシュな調査と並行して、鷗外の人脈を駆使した各方面や墓地・寺院への聞き込みによって抽斎の子孫にたどり着くところは、鷗外の頭の中をそのまま追体験しているようで面白い。特に昔のことなので寺が移動していたりしていて聞いたことと実地見聞したこととの齟齬があり行き詰まってしまうところもなんというか、鷗外自身もそういうのを楽しんでいるような感じが伝わってきます。「ここまでは調べた、これ以降はちょっとわからない。知らない人がいたら教えてくれ」と素直に(これは新聞連載だったようです)表明し、その表明に読者から投稿があってまた糸口がつながっていく、そのいちいちが再現されていて読んでいて本当に楽しいです。

その後、抽斎のその生涯を追っていくのですが、抽斎が亡くなる記述がちょうど作品の半分くらいのところなんですね。そこで終わるのかと思えば、その後は妻の五百(いお)の強烈なキャラクターと、子どもたち、とくに陸(くが)の成り上がり人生の描写が引き続いて本当に面白い、読ませる。むしろ渋江抽斎の本編においては抽斎の生涯よりも五百の生涯のパートの方がずっと面白いです。「学がある人のところに嫁ぎたい」という五百の意図をまんまと叶えたところなど、鷗外はどうやってそんなこと調べたのだろう? 後半に行くに従って典拠の紹介が無くなり、小説的な語り口になるのもミソですね。

けっこう人物の多さとか、それぞれの年齢の考証部分などは退屈するかもしれないのですが、もっと気軽に手にとって楽しんでいい作品だなと改めて思いました。また史伝シリーズは読んでいってみたいと思います。


岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』再読

あらためて全十二巻を再読しました。

いややはり岩本ナオは素晴らしい作家です、本当に。後半は主人公の秋姫が天狗になっていくプロセスの中で級友たちとの別れがたさや、瞬との関係の前景化が描かれていくわけですが、それもなにもかもやはりコミック前半での様々な人間模様──タケルとの最初の付き合いや、様々な同級生たちの恋愛模様、学園祭でのクラスの対立とか、生徒会役員選挙とか、そういうある意味で学園ものでは王道の道具立てがそれで終わらずら一気に花開くというか、前半のややだらっとした日常があるからこそ後半の急ピッチの展開にもしっかり人物像系の陰影がついていってるんだなあと(感心をはるかに通り越して)感動します。

特に岩本ナオは絵柄で変に美化しないところがいいですよね。クラスの中で隣に座っている人なんてきっとこんなもんですよね、実際。それでそれぞれが自分の持ち味をどうしようもできない限界としてしっかり認識したうえで自分なりの幸せをつかんでいくっていうのは、全然少女漫画的ではなくて、極めてリアリスティックな描写なのだと思います。あと意外と男同士の関係もしっかり描いていて、そこも面白いですよね。ホームセンターの場面はついに描かれませんでしたが、想像するに難くない……。