映画『ボヘミアン・ラプソディ』

を、見ました。

といってもぼく自身はQUEENについてはほとんどド素人なので、この映画のある意味での「わかりやすさ」に対して、史実とどこが違うとか、ライブエイドの実際の映像との比較などを通じた「再現率」などをうんぬんすることはまったくできません。ただ、ぐいぐいと推し進める、あるロックバンドの「物語」に酔いしれる。それだけでいいのかもしれません。しかし見終わったあとには、フレディーの人生は本当にこんな小奇麗にまとめられてしまう程度のものだったのだろうか? という、これはもちろん反語ですが、一つの物語を通過したあとの感動の興奮もさることながら、一方で一人の男の人生をこんなふうに「消費」しちゃっててよいのだろうかという妙な後ろめたさみたいなものも変について回るのも不思議なものです。いずれにせよ、これを起点にして何かを考えなければならない、そういう気持ちにさせる変な映画です。それはもしかしたらQUEENのボヘミアン・ラプソディーを早速youtubeで全編聞くことなのかもしれないし、当時の熱狂を知っている人たちの声を丁寧に聴き直すことなのかもしれない。あるいは現代のQUEENを、マスコミの非難にさらされながらも「大衆」(そんなものが今もあればの話ですが)の支持を得ている人たちに思いを馳せることなのかもしれません。

どうでもいいですが、昔学生の頃家庭教師をしていたときに、ライブエイドではなくてバンドエイドの成立を説明した英文がホライズンとかそういう普通の英語の教科書に載っていて、それを懇切丁寧に解説したことを思い出しました。ウィキで見てみましたけど、ライブエイドはバンドエイドの派生なんですね。


エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(田中西二郎訳)

を、読みました。

なんだかんだで『嵐が丘』は学生時代から何度か読み返している好きな小説の一つです。そして、いろいろな文庫からいろいろな翻訳が出ているというのも『嵐が丘』の楽しみ方の一つだと思います。ぼく自身は岩波の新訳(河島弘美)に親しんでいましたが、やはり往年の新潮文庫の田中西二郎訳というのはいろいろなところで評判が高く、それは多分、世の中の読書人と言われる人々の大半の世代がこれを読んだからなのだろうと思います。そもそもの新潮文庫は今は本屋に行っても鴻巣訳の新しいものしかありませんが、アマゾンのレピューが荒れているのも、多分田中訳に親しんだ「オッサン」達のおせっかいなんだろうと思いますが……。

で、当然ながら古本で取り寄せて読みました。期待通り、味のある訳文。特にこの小説は主人公たちよりもむしろ脇を固める小間使いの人間たちのおしゃべりが楽しい。いかにも田舎の頑固親父の屈折したお小言が、これでもかというくらい大時代の調子で描かれているのは、本当に楽しい。そもそもこの小説自体が冒頭の数行を除けばほぼすべて使用人の豊かな語りによる世界の構築なので、もちろんこの通り喋る人は現実にはいないのですが、そこをきぐいぐいと引っ張る力が、文章にみなぎっている感じがします。

おそらくこれが新潮文庫から消えたのは、単に差別用語への配慮なんだろうと思いますが、それを差っ引いたとしてもまだまだ現役で生けるんじゃないでしょうか。鴻巣訳、さらに光文社古典新訳も出ているので、じっくりと他の文庫にも改めて当たってみたいと感じました。


ようやく新パソコン起動

あたらしいパソコンを開封し、昨日からデータの更新をしています。びっくりしましたが、いまのパソコンはワードやエクセルでさえ最初からインストールされていなくて、電源を入れたあと、ひたすらオンラインでダウンロードされるのを待っていなければならないという仕組みになっているのですね……。キーボードの慣れなさも新鮮ですが、HDDのカラカラ言う音も、今となっては安価なパソコンならではで、少し昔のことを思い出してしまいます。とりあえず、初期設定はなんとか終わりそうなので、少し心を入れ替えて、アウトプットに精を出せるように、しばらくこの新しい相棒を使い倒して行く覚悟でブログを充実していきたいと思っています。


UMEにことよせて

公園から帰る途中で、団地の中を歩いていると梅が咲いているのに通りがかった。
携帯のカメラは、今ではあまりに当たり前になってしまい、撮ることも少なくなってしまった。
けれど、カメラを持ち歩いているという感覚は今一度思い出しておくべきなにかであると最近思う。
別に残すことが目的ではなくて、何かを見つけてやろう、という気概を。
カメラがあればよかったのに、とか、もっと以前にどこにでも持ち歩ける自分だけのカメラがあればどんなにかよいだろう、などと思うことすら禁じられているぼくらにおいて、欲望をリブートさせるにはずいぶんと手間がかかる時代になってしまったものだ。


パソコン買い替え

我が家のmac book proもそろそろ引退の時期だ。

独身のときに買ったものだからもう七年くらい使っている。とっくに償却しきっている。しかも四年目くらいに調子が悪くなってマザーボードを全部取っ替えてもらったこともあるのでさすがにパソコンとしては天寿を全うしたものと考えるべきだろう。加えて、いろいろ前段の話はあるが、結果として最近の二段階認証の導入でapple storeにログインすらできなくなってしまい、かなりお手上げだ。

もうmacは買わないだろう、とはなんとなく思い続けていた。ぼくの欲しかったmacは、2000年代に花開いたiMacの頃の、あのアウラなのだ。そして、今や銀色のボディーにmac風のキーボードをそろえたノートパソコンはほとんど「パソコン」というもののスタンダードになってしまった。ネットの浸透で、ブラウザさえあればOSの違いはほとんど考えられなくなった。

しかし半日検索しまくったが、オフィスありで相場は7万円くらい。DELLが飛び抜けて安い(5万円)のですが評判が悪すぎるのでたぶんそういうことなんだろうなと。信頼のIBMで決めようかな・・・。

そしてamazonのアフィリエイト規約が変わったせいでamazonjsの画像が全く出てこなくなってしまった。
これもどうしたものやら・・・。


映画『コーヒーが冷めないうちに』

を、見ました。

なんというか、いろいろ誤解のある作品だなあ、と。まず無理矢理場面を「喫茶店」の中に限定せざるを得ない「設定」のややこしさと、そして冒頭の喫茶店に座っている客人が全員お互いにしゃべりだすあの感じ・・・これは学生演劇でやったらもっと面白いんじゃないか? と思いながら見ていたのですがあとで調べてみるともともとは演劇の脚本たったんですね。ぼくがいろいろな書評ブログで目にしたのは、小説版のあまりの評価の低さだったのですが、それはあくまでも「小説」の作法を守れていない無理な改作だったが故だったのではないでしょうか(実際に小説版は一文字も読んでいないので想像するしかないのですが)。

まあ、設定の無理矢理さとか、わかりやすいお涙ちょうだいとか、妊婦が全力疾走したりとか、どう考えてもおかしいところはあるのですが、演劇だったら「まあ演劇だし」とか、あるいは演劇特有の笑いに変えてしまう力なんかがうまくはたらいて収まるんでしょうが。なんというか小説とか映画のような遊び(=じぶんへの「つっこみ」を許さない)のない「くそまじめ」なメディアに乗せてしまうとちょっとそぐわなさが目立ってしまうというのが、この一連の毀誉褒貶を見るにつけ、そこもふくめて「おもしろいなあ」という感想です。

ということで、そんなにひどい作品なんだろうか? という先入観で見始めた鑑賞者はやはり同じ感想を抱えたまま見終わるのですが、いずれにせよマスコミのあおり文句も含めて、自分の目で確かめることがなによりも大事だとあらためて思わされる妙な作品でした。


丸山空大『フランツ・ローゼンツヴァイク 生と啓示の哲学』

を、読みました。

門外漢のぼくがあれこれ言っても仕方がないのですが、宗教が「世俗化」した20世紀にあって、まさにユダヤ教が人種と宗教の交差点にあるということが輪をかけて事態を複雑にしている「ユダヤ性」の原点へ、それも人工的に修正主義的に捏造された「原点」ではなく、━━あるいは、それすら不問にしてしまうような地平で、果敢に自らの「ユダヤ性」に回帰していく一人の男の純粋な闘争の一部始終、と言ったらいいんでしょうか。数年前に浩瀚な『救済の星』の邦訳が刊行されてからもなんとなくこのブーバー周囲の「対話の哲学」というのは日本の人文学においても少しずつその名を広めつつあるように感じてはいましたが、本書もおそらくは学会の空隙を狙い撃ちした待望の研究書、邦文書籍なのだと思います。

著者の眼差しは、ローゼンツヴァイクの交友関係がまさにそのユダヤとの関わりの中で揺れ動く源泉になっていることを見逃しません。いわゆる人文学の研究というのがブッキッシュな方面へ淫していくのは、原典=文字情報という宿命を背負っている以上ある程度仕方がないのですが、本書はインターネット上にも近年公開されたローゼンツヴァイクのあるいはやや私的なといっても良いくらいの書簡を丁寧に読み込むことで、その空白も補いつつ、単なる研究者ローゼンツヴァイクではない、友人や家族や恋人らの身近な人々の「ユダヤ性」へのゆらぎにたいして自らもまたシンクロし、思考のフロンティアを彼らのために懸命に進めていく姿がみずみずしく描き出されています。それに呼応するように、巻末の著者の謝辞もまた大げさに書くのを許されるなら涙を誘います。

ともあれ、丸山さん、単著刊行おめでとうございます!


三島由紀夫『葉隠入門』

久しぶりに読み返す。三島はなんとなく武士と現代サラリーマンを対比させるように書いているけれど、サラリーマン指南書として読むととたんに底が浅くなるというか・・・これはたぶん三島一流の諧謔だったんじゃないかと今更なから思います。田中美代子の解説はいつも大真面目ですがきれいにその点はスルーされているのも清々しい。


『図説 ユダヤ教の歴史』

を、読みました。

市川先生編纂によるユダヤ教の歴史をビジュアルに概括できる良い本です。ユダヤ教は、宗教というよりはイスラームのように生活習慣に深く根ざしたもので、さらに事態を難しくさせているのは悲しい歴史にも体現されているように、それが一つの「民族」「人種」としての規定も含んでいるからなのでしょう。そのことをこのわずかなページ数の中に織り込むことはなかなか並大抵のことではないと感じました。それでもなお、カバラーについてなどトピック的な章立てもふんだんにあり、なかなか興味深いです。おそらく宗教としてのユダヤ教についての記述は抑えられているので、旧約聖書のあれやこれやなどについては実際に原典にあたるとかしないといけないのでしょうが、しかし意外とユダヤ教についてなんの偏見もなくコンパクトにまとまった本というのは、探しても本当にこれ以外見つかりません。ふくろうやとんぼのシリーズは昔から好きですが、これもおすすめです。


スマホ機種変

フリーテルが突然電池の持ちが悪くなったため、急遽購入。SIMフリーだとなんか機種変という感慨もないし、アンドロイドだと結局差別化できるのってカメラ機能だけだよな実際。

しかし先代の機種も、後でよく調べてみるとgoogle開発アプリがなにかの拍子に暴走することはよくあるみたい。しかしフル充電して突然午前中しか電池が持たなくなったら(しかもすごい発熱)さすがにビビるわ。このエイスースも初期設定がやたら難しくて、ほんとに疲れた。いろいろデータの節約設定があるのだけどやればやるほど本来の機能が制限されていくっていうのが、なんともはや・・・。しかも設定してもバックグラウンドで突然マイナーアプリが意味不明に通信量食っているし・・・もうしばらく放っときます。

ケータイのシンプルさからすると本当に、手元で何でもできるようにはなったけど、それにつられて面倒な設定に時間を費やされている気もしなくもない。まあ貧乏人なので、定額とかにできない身の嘆きではあるのだけど。

あとフリーテルが潰れてたくみに楽天モバイルへの誘導がなされるのだが、中身をよく確認すると結局電話番号持ち出したりしないといけないので実質他社に乗り換えるのと同じ手続きが必要なようで。しばらくはフリーテルを倒産に追いやった激安メニューを温存します・・・。